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「サピエンス全史」から考える日本人の「穢れ」という認識

​​「サピエンス全史」から考える日本人の「穢れ」という認識 ​




 新年になりましたからおめでたい話からはじめます。
 神社に行くと参拝する前に、参道の脇にある手水舎(てみずや)という場所で、身を清めますね。手水舎には、水がためてあり、柄杓(ひしゃく)が用意されていますね。そこでの具体的な作法は、こうです。
1、右手で柄杓を取って、水を汲み、それをかけて左手を清めます。 
2、次に、左手に柄杓を持ちかえて、右手を清めます。 
3、再びひしゃくを右手に持ちかえて、左の手のひらに水を受け、その水を口にいれてすすぎます。 
4、すすぎ終わったら、水をもう一度左手にかけて清めます。 
5、使った柄杓を立てて、柄の部分に水を伝わらせるようにして清め、柄杓を元の位置に戻します。 
 この時、直接柄杓に口をつけてはいけません。多くの人が使うものですから当然です。
 この一連の行為を見て、鋭い感性を持つ皆さんはお気づきだと思います。そうです。最近うるさいインフルエンザ予防のための手洗いとうがいの励行ですね。但し、インフルエンザ・ウイルスには効果はないそうです。


サピエンスはウイルスを悪霊と考えた​​​

 約20万年前にアフリカで誕生したサピエンスは、生命を繋ぐために世界中に広がっていきました。その間には様々なウイルスや細菌、病原性微生物に感染して命を落とす人たちがたくさんいたことは間違いありませんね。
 しかし、サピエンスにはその原因がほとんどわからなかった。おそらく自然界に存在する「悪霊・死霊」の仕業であると考えていたのではないかと考えられます。

​​​◯古代の狩猟採集民は、感染症の被害も少なかった。天然痘や麻疹(はしか)、結核など、農耕社会や工業社会を苦しめてきた​感染症のほとんどは家畜に由来し、農業革命以後になって初めて人類も感染し始めた。
​​(『サピエンス全史上』著・ユヴァル・ノア・ハラリ)​​


◯ウイルスは生物と非生物の性質を持ち、インフルエンザや風疹やヘルペスなど多くの病気を引き起こす。細菌はバクテリアともよばれ、細胞分裂で増殖する単細胞生物。ピロリ菌や結核菌など多彩な顔ぶれだ。さらに、マラリアやアメーバ赤痢をおこす原虫。このほかにも、水虫の原因になる真菌、肺炎やツツガムシ病を引き起こすリケッチアなどの病原性微生物が知られる。
​ こうした微生物の中には、狩猟時代には野生生物から、定住農耕社会に入ってから家畜から人に宿主を広げたものが多い。
​​(『感染症の世界史』著・石弘之)
​​​​

 原因のわからない病気は家畜や野生動物から伝染しているようです。現在でも宗派によっては宗教上食していけない家畜がありますが、この事実が根底にあるからだそうです。

 
​​サピエンスにも「健康マニア」がいた​​

 サピエンスの中には賢い人がいました。今で言えば「健康マニア」です。狩猟・採取から帰ってきたら手洗いと口内すすぎ(うがい)をすれば風邪をひかない、熱を出さないことを経験的に学習し、それを広めました。また、森や木、土、獣の体や血には人間の生存を脅かす汚れが存在し、水は清純なもので汚れをおとすものと考えたのです。それが禊(みそぎ)のはじまりのようです。​
​ しかし同時に、サピエンスは水では流せない「目に見えない疫病や病気が存在する」ことにも気づきます。当然ながら原因を考えます。電子顕微鏡はありませんから、そこで生まれるのが「アニミズム」(「魂」「霊」崇拝)という虚構です。自然界にあるすべての物や生き物には霊があり、それが怒ると祟りや禍をもたらすことがあると考えたようです。当然ながら、死者の霊も存在していると考えていました。
 そこから祈りがはじまります。祈りは信仰や儀式を生み出していきます。​





「穢れ」は人間の虚構がつくりだした​​
 
 「穢れ」という認識は物理的な汚れと、畏怖から脳がつくりだす虚構とが同化することにより誕生したようです。手を洗い、口の中をすすぐことで、人間は実際の汚れだけでなく、とりついた「穢れ」まで払うという極めて抽象的かつ包括的な認識を創りだし、それを祓うための便利な祈りの言葉と儀式を創りだしたのです。
 誤解を恐れずに言えば、狩猟・採取時代から農耕社会誕生の初期段階においては、「穢れ」という認識は人間が生存し、人間社会を形成していくうえで必要なもので、今日のように人間を侮辱するために使う認識ではなかったのです。 
 しかし、この認識も農耕社会が発展するとともに変化していきます。日本においては神道と仏教思想が合流して支配体制を固定化するための思想として支配基盤の中に取り入れられることにより、複雑に変質していきました。しかし、「穢れ」の根源が死への恐れにあることにかわりはありません。
 ​ここからは汚れという表現は「穢れ」に統一させていただきます。​

​歴史に登場するのは、紀元前1万年から前8千年のころ、農業の開始と同じ時期に人の間で流行がはじまり、農業の普及とともに勢力を増していった。約4千8百年から5千5百年前のエジプトの複数のミイラからマラリアの原虫のDNAがみつかり、当時のマラリアの流行がみられる。​ 
​​(『感染症の世界史』著・石弘之)​​

農耕のストレスは、広範な影響を及ぼした。そのストレスが、大規模な政治体制や社会体制の土台だった。悲しいかな、勤勉な農耕民は、現在の懸命な労働を通してなんとしても手に入れようと願っていた本来の経済的安心を達成できることは、まずなかった。到る所で支配者やエリートが台頭し、農耕民の余剰食糧によって暮らし、農耕民は生きていくのが精一杯の状態におかれた。
​(『サピエンス全史上』著・ユヴァル・ノア・ハラリ)​​​


「死」の原因は遺伝子の段階まで解明されている​​

 狩猟・採取社会に比べると農耕社会がサピエンスにとってストレス社会であったことは間違いないようですね。農業は定住が基本となりますから、人間社会は濃密になります。その結果、感染症は、人と人の接触、排泄物や飲み水によって流行します。特に、稲作は河川や沼地にため池などの付近で行われるため、様々な様々なウイルスや細菌、病原性微生物に感染することになります。 
 さらに、​家畜からも様々な伝染病が人間に移されています。牛からは麻疹、天然痘、結核、ジフテリア、炭疽症、最近話題になった牛海綿状脳症(BSE)などです。当然ながら、豚、鳥類などからも感染しているのです。​
 現代では病気の原因は近代科学と医学によって遺伝子段階まで突き止められ、一部の病気以外は治療法や薬剤まで開発されています。病気は「悪霊」や「怨霊」の仕業でないこと、治療するのは神や仏でなく人間であることは誰でも知っていることです。つまり脳が創りだした「穢れ」という虚構を支える客観的根拠は消えてしまっているのです。

​伝統的には死は聖職者や神学者の得意分野だったが、今や技術者が彼らにとってかわりつつある。私たちは、がん細胞を科学療法やナノロボットで殺すことが出来る。抗生物質で肺の病原菌を根絶できる。心臓が血液を押し出さなくなったら、薬や電気ショックで動きを回復させられるし、それでも効き目がなければ新しい心臓を移植することができる。​
​​​(『ホモ・デウス上』著・ユヴァル・ノア・ハラリ)​​






百田尚樹さんには書けない『古事記』の話​​

 『古事記』(712年完成)は律令制の完成とともに編纂されました。内容は、前半はほぼ「天皇家は神様の子孫である」とする神話です。でも、この神話は明らかに民間に伝承されてきた神話の集大成とは違い、当時の権力者藤原一族がプロデュースしたものですから、明確には神話とはいえません。最近、百田尚樹という流行作家が『日本国紀』という本を出して話題になっています。『古事記』を歴史書として礼賛していますが、内容には一切ふれていません。『古事記』の内容に触れずに『日本国紀』とはよく言えるもんだと感心しました。
 『古事記』には天皇家が神から続く日本の正統な支配者であることを記述しながらも、当時の日本人の認識を反映した部分があります。日本の国土を創造したイザナギ(男神)とイザナミ(女神)のお話しの中で、​イザナギはイザナミが死んで「黄泉の国」(よみのくに・あの世)に、恋しくて会いに行ったらイザナミは腐乱してウジがわいていた、あわてて現生に戻ってきて死の「穢れ」を川の水で清めるというお話しです。​
 この物語は道教という中国の土俗信仰の影響を受けているといわれています。簡単に言えば、人間は死後は霊魂となり、悪鬼となり、供養しなければ現世に祟りをもたらすというものです。
 このお話しの凄味は、死後の世界がリアルに描かれ、女神でさえ死ねば腐乱し、体から雷を発する鬼女となってイザナギを手下の悪霊どもに追いかけさせるという場面が書かれていることです。
 こうした内容から見ると、この時代には「死穢」という認識はあっても家や血筋を指して「穢れている。穢れていない」と区分するという認識は生まれていなかったようです。


日本人は禊(みそぎ)をすれば「穢れ」は消えると考えていた​​

​ 『古事記』には、日本人のもつ「穢れ」という認識の根源がよくあらわれていますね。物理的な汚れと精神に汚れが付着した状態を一体のものと認識していることです。ゆえに「穢れ」はイザナギのように禊(みそぎ)をすれば、洗い流せば消えてしまうというものなのです。​
 禊は、罪や穢れを落とし自らを清らかにすることを目的とした、神道における水浴行為であり、不浄(「穢れ」)を取り除く行為である祓(はらえ)の一種なのです。
 例えば、私たちはよく「悪い人」のことを「汚い奴」といいますね。さらに、「悪い人」のことを「心の穢れた奴」ともいいます。「悪いこと」と「汚いこと」を同議語として使用し、その根源に「穢れ」があるという認識を持っています。汚職した政治家の場合、逮捕されて有罪を受けて刑期を終えると「禊が終わった」といいます。その時点で「穢れ」は消滅するのです。誠におおらかな信仰なのです。





「部落」の人たちを侮蔑した「穢れ」は本流からはずれていた

 かつて「部落」の人たちを「穢多」という言葉を使って差別した時代がありましたね。これまで説明させていただいたように、日本人のもつ本来の「穢れ」の認識とは違っていますね。「穢れ」が家(職業)・血筋と結びつけられており、明らかに差別思想に変質しています。これは支配階級が農民と賤民に対する苛酷な収奪を正当化し、支配関係を安定化させるために創造した身分制という虚構から生まれたものです。
​​​​ 封建社会はいわば少数の支配者が圧倒的多数を占める農民を抑圧・収奪する社会ですから、農民には相当強いストレスが蔓延していたはずですね。そうした中で、支配者から弊牛馬処理の特権を与えられて、牛馬などの死体(古代では家畜は伝染病の発信源)を加工して、皮革や(にかわ=接着剤)を生産する特殊技能集団を「死穢」を口実にして排除したくなりますね。膠は動物の骨、皮、腱(けん) などから抽出したゼラチンを主成分とする物質であり、仏像、建築物、工芸品を作るのに欠かせないものでした。​特に、墨は煤(すす)などを膠で固めてつくるので、膠がなければ墨はつくれなかったのです。日本文化だけでなく、東洋文化の物質的な基礎だったのです。​​​​​
​ 歴史的に見ても「皮多」から「穢多」という強い侮蔑の意味を込めた呼称に一般化していくのが、中世末期から近世にかけてであり、兵農分離、農民支配の強化、檀家制度などが確立し、苛酷な収奪体制と信仰支配が確立していく時代に重なります。 ​
​​ 農民が支配階級の苛酷な収奪に対するストレスを発散するために、「皮多」に対して「穢多」という侮辱語を使い、差別・排除しようとするのは悲しいことながら自然といえます。まるで現代のいじめのようです。その認識の核となっているのは「せっかく大切に育てた可愛い牛馬を死んだらタダでとられてしまった」という悲憤を基にした積年の憎悪・怨念のようです。​​
 中世末期から近世に成立した「穢れ」という認識には、信仰としての「死穢」に農民の憎悪が込められ、習慣・習俗として定着したため根強い差別となったようです。何の罪もない「皮多」の人たちにとってはお気の毒としかいいようがありません。


「部落」の人を「穢れている」と差別する人こそ心が「穢れ」ている​​

 現代においては、古代に生まれた「穢れ」という認識は近代科学と医学によって根拠は雲散霧消しています。かすかに残されている問題は憎悪を基調とする「穢れ」という認識から発生する部落差別です。 ​
​ 一般的に日本人が認識している信仰としての「穢れ」の認識からは相当かけ離れた特殊なものですから、「闇の心」というべきもので誠に性根のわるいものです。だから多くの場合は「陰口」で「部落」の人たちを攻撃するのです。 ​
​​ ゆえに「部落」の人が禊をすれば「穢れ」が消えるというものではなく、「部落」の人たちを「穢れ」ていると考える「心の穢れた人たち」​が禊をしなければ消えないものなのです。​​​
 時代は「ホモ・サピエンス」の時代から「ホモ・グレート」の時代へ進化し、ITとAIを駆使できる人間、ITとAIに同化し、グレート・アップした人間が富と権力を得、さらに長い寿命を獲得できる時代が到来しているといわれています。
 そんな時代に、封建社会において、収奪と抑圧をうけた農民が増幅した特殊な「穢れ」という認識の残りカスがこのまま生き残ることはあり得ないことは明白です。




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消えゆく「部落民」―心のゴースト⑤ すごく明るい部落問題

​​​​​​​​​​​​​消えゆく「部落民」―心のゴースト⑤
すごく明るい部落問題​​​​​​​





 富士山に登ったことがありますか?頂上が見えると嬉しくて心が晴れ晴れとします。そして、疲れているはずなのに元気になります。
 今、部落問題は富士登山に例えると、皆さんはどの位置まで到達していると考えられますか? 
 法務省や行政の人権相談の件数や内容から検証すると、私たちは頂上到達寸前まで来ていると考えています。 

●法務省の人権擁護機関の「人権侵犯事件」資料(全国)によれば、2017年の同和関連の相談は106件(47府県で割ると2.3件)にすぎません。そのうち、行政が措置すべき対象となる勧告、通告、告発に該当するものは一件もありません。
●神戸市の人権相談窓口に寄せられた相談内容についても、2016年は61件(うち同和関連3件)。2017年は48件(うち同和関連3件)となっています。


希望のない「3K部落問題」は希望のある「3A部落問題」へ​ ​
 
 当然ながら、相談件数=部落差別ではありません。勧告、通告、告発に至ってはじめて人権侵犯事件として扱われますから、この件数からいえば部落差別は「解消した」といえる状況にあります。
​ こうした到達点に立つなら、部落問題はこれまでのような希望の持てない「3K部落問題」《K》苦しい。《K》悲しい。《K》希望が持てない。)という視点で、同和教育や啓発、同和対策を継続すれば、現実社会と認識に大きなずれが生じ、存在しない「部落民」というゴーストが生み出され続けることになります。​
 特に匿名性が高く、非現実なネット社会で「部落民」はうろつき続けることになります。
​ これまで本ブログは希望の持てる「3A部落問題」《A》愛を持って。《A》明るい。《A》明日を拓く。)という発想をもとに発信してきました。こうした視点で部落問題は最終的解決を目指すべき時代にきているのではないでしようか。​
 そこで今回は、余計なことかもしれませんが、「ネット」で多く見られる「部落問題」に関する「深い苦悩」(?)に対して、「3A部落問題」の観点からご助言をさせていただくことにいたしました。


「部落民」に対する差別的偏見を生まれつき持っている人はいませんよ。<br /><br />「部落民」に対する差別的偏見は、家族や親族、地域社会の中に残る封建的な因習にもとづく言動、あるいは希望の持てない「3K同和教育」などにより、脳(心)に刻みつけられたものです。<br />脳(心)がいかにして差別的偏見を認識(記憶)するかについては、心理学者のワトソン(J.B.Watson)とレイナー(R.Rayner)が、生まれて11ヶ月の赤ん坊に対して「恐怖条件づけ」の実験を行った、外的内的要因による肉体的、また精神的な衝撃、いわゆる恐怖認識が人間の認識や行動を左右するという事例をもとに、脳(心)が差別的偏見を創りだすアルゴリズム(手順)について本ブログ(2018年1月)で詳細に説明させていただきましたので、ご参照ください。<br />



1、私の夫が「部落民」だったらどうしよう?​
​​愛は冷めましたか?だったら「部落民」を口実にするのは止めましようね。​​​

※一番だましやすい人間は、すなわち自分自身
である。
エドワード・ブルワー・リットン(フランスの小説家)


※花はなぜ美しいか、一筋の気持ちで咲いているからだ。
八木 重吉(詩人)​




​2、私の妻が「部落民」だったらどうしよう?​
​​浮気の口実にするなよ!あとが恐いぞ。​​

※人生は、ケチな心配事ばかりしているのには短すぎる。​
C・キングスリー(イギリスの作家)




​3、私の好きなアイドルが「部落民」だったらどうしよう?
​​
 ​心配するな。あなたが応援しなくても応援する人はたくさんいる。​​


※自分を嫌う人はいつだっているんだから、それを心配してじっとしているわけにはいかないわ。そんなとこで立ち止まったりできないんだから。

​​​マドンナ (アメリカの歌手)​​


4、私の好きな演歌歌手が「部落民」だったらどうしよう?​
 ​「『差別者』も神様です」。そんな気持ちで歌っていますよ。​​

※寒さに震えたものほど太陽の温かさを感じる。人生の悩みをくぐったものほど、生命の尊さを知る。
​ホイットマン(『草の葉』岩波書店)​​


5、私の好きな俳優が「部落民」だったらどうしよう?​
 「てめら人間じゃねえ、たたっきるぞ!」(時代劇の名セリフ)​​

※私の苦痛が誰かの笑いのもとになることもある。だが私の笑いが誰かの苦痛のもとになることは決してあってはならない。
チャールズ・チャップリン(アメリカの俳優)​​


憎悪感情は心も顔も醜くするよ<br /><br />封建社会ではない現代社会においては部落差別は社会制度や社会関係を円滑に進める上では何の利用価値もありませんし、反対にトラブルの原因となります。「恐怖条件づけ」であなたの心に刻みつけられた差別的偏見には法的・社会的根拠も正当性もありません。<br />あるとすれば、自己の社会的不遇を呪い怨嗟(えんさ)する感情を他者に対する憎悪に転化する場合です。「ネット」では、そうした感情を「部落民」(脳(心)内ゴースト)にぶつけている場合が多く見られます。<br />進化論の第一人者ダーウィンは人も動物も憎悪感情を持つと表情が極めて醜くなることを証明しています。<br />



6、私の先祖が「部落民」だったらどうしよう?​
​ ​心配ない。みんな先祖は猿だ。​​

※人間は、自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそが神々であるとした。このことは少しも誤っていないのである。
​​ 司馬遼太郎 (『21世紀に生きる君たちへ』世界文化社)​​


​7、私の恋人が「差別者」だったらどうしよう?​
​ 別れましょう。​​

※あなたが彼の課題を代わりに解決しようとしよう。彼は自立し行動することを決して必要だと思わないだろう。
​アドラー(心理学者)​​

 ​差別的偏見から脱却するのは彼の課題だ。​

誰かの差別的偏見にふりまわされるなよ<br />「恐怖条件づけ」によって、あなたの心の中で「部落民」はトラウマ(心的外傷)になっているようですね。そのトラウマはアイドルが作りだしているのではなく、あなたの脳(心)がつくりだしているのですよ。<br /><br />あなたの価値観はあなたしかつくれない<br />いつまでも誰かの差別的偏見で振り回されている自分のままでいいのか考えてみてください。<br />素晴らしい歌を聞き、感動するのに、余計な邪心があっては心から感動できませんね。でも「気になって仕方がない」という方もおられるかもしれません。ではどうすればゴーストの影響を受けなくなるのか。それは簡単です。原因が「恐怖条件づけ」によって「自分の心に作られたトラウマである」と認識することです。そうすれば、トラウマは脳(心)の中で固定化され、過去のものになりますから自分の心が縛られることはありません。<br />



8、私には「部落民」がどこにいるかわかりません。
 ​当然です。「部落民」は差別的偏見のない人には見えません。​​

※生存のために可能な唯一の形式は両親の型式である。両親の暮らし方が寛容なら幼児もそうなるし、一定集団に敵意をもつ幼児もそうなる。

​G.W.オルポート (『偏見の心理』)​​


9、「部落民」には怖い人がいます。​
​怖い人は世界中どこにでもいますよ​。​

※道徳とは、われわれが個人的に好かない人たちにとる態度だ。

​オスカー・ワイルド(『理想の夫』角川書店)​​



10、私には部落問題が解決した状態がわかりません。​
​解決するとわからなくなります。​​

※発見の旅とは、新しい景色をさがすことではない。新しい目を持つことだ。
​プル―スト(フランスの作家)​​


自分の認識に固執しすぎるなよ<br />人間には、それぞれ生育環境や人間関係によって、「認知バイアス」の違いが生まれます。それは個人特有の色眼鏡です。人間はその色眼鏡を通して、相手を判断しますから、好き嫌いにおのずと他人とは違う個性がでてきます。<br />個性は大切ですが、アドラーはこの色眼鏡認識には5つの誤り(青字部分)が生じることを指摘しています。この5つの誤りを部落問題と関連づけていえば以下の通りになります。<br />①決めつける―部落問題は暗い、悲しい、苦しい。<br />②誇張する―将来、絶対差別される。絶対結婚できない。<br />③見落とす―差別的偏見のない人が存在しているのに気づかない。<br />④過度の一般化―「部落民」は怖い。<br />⑤誤った価値観―「部落民」は穢れている。<br />誤った色眼鏡で俳優を見ると本当の俳優のいいところが見えなくなりますよ。



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人間愛の欠落した人権教育は必要か―神戸市垂水区の中三少女自殺から

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​​人間愛の欠落した人権教育は必要か―神戸市垂水区の中三少女自殺から​​

秋がやっと来ました。<br />森に行くとこんな精霊たちに会えるかもしれませんよ。人類は自然のすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方(アニミズム: animism)を持っていましたね。それが人間の想像力によって具象化されたものが森の妖精たちであり、妖怪たちです。昔ばなしや神話・物語の主人公や脇役になって後世に伝えられてきました。<br />こうしたお話しは心を癒しますね。

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 部落問題を解決してきたのは人を思いやる心を持つ日本人です。明治150年。明治から第二次世界大戦まではどちらかといえば部落問題を解決するための準備期間にあたり、本格的に部落問題解決をすすめたのは、新憲法が制定されてからの72年です。​
 部落問題の最終的解決は新しい日本国憲法と日本人のやさしい心(人間愛)のコラボレーションですすみます。

 
​1、少女の自殺の原因を隠ぺいする「人権教育者」​​

 「人権教育は、一人ひとりの生命と尊厳を尊重するという人権尊重の理念について基礎的な知識を体得し、人権が持つ価値や重要性を共感的に受け止めるような感性を養い、自分や他者の人権を守る態度や行動力の育成を目的とするものです」(「『第3次神戸市人権教育・啓発に関する基本計画』Ⅲ-2.人権教育・啓発」より)。
 毎年、私たちは神戸市教育委員会の人権教育担当課と交渉し、基本計画の目標である「一人ひとりの生命と尊厳を尊重する」ために行われている各学校や地域で行われている実践報告をお聞きしています。いじめ、低学力、不就学対策に寝食を忘れて取り組む現場の教職員の皆様の努力に感動し、感謝もしてきました。
 そうした中、神戸市垂水区の中学3年の女子生徒が一昨年、いじめを苦に自殺した問題で、当時の市教育委員会の担当者と校長が、自殺直後に同級生から聞き取ったいじめを裏付けるメモを「破棄した」と、うその報告をし、メモの存在を隠ぺいし、自殺といじめの真相究明を難しくした。それでも、「組織的隠ぺいではない」という見解を示しているという報道に驚いています。
 この見解は同じ学校内で複数の教師が認識していたことが暴露され、この言い訳は破綻し、同時に、市教育委員会の担当幹部は隠ぺいに当たり校長に『先生も腹をくくってください』などと申し入れて、隠ぺいを強制したということさえ明るみになっているのです。
  隠ぺいの理由については「事務処理が煩雑にならないように」と述べていますが、実際には行政の責任を回避することが目的であったことは明白であり、女子生徒の自殺を事務処理レベルの問題にしてしまいました。​幕引きを図った関係者の心にはやさしはなく、「さもしい心」が透けて見えます。
 ​※「さもしい」とは、 品性が下劣なさま。心根が卑しい。意地汚いという意味である。​

 「神戸市教育委員会は我々に嘘をついてきた」
 「『基本計画』はお飾りだ」
   「これが神戸市の人権教育の正体だ」
 
 などと、私たちの組織では、期待を裏切られたという気持ちとともに不信と批判が渦巻いています。
 しかし、私たちは学校で子どもたちのために本気で悩み苦しむ「よき教師」と、この「さもしい人権教育者」たちを同じ視点でみてはいけません。


​2、「さもしい人権教育者」の正体は「教育官僚」​​

 この隠ぺいを主導したのは指導主事(しどうしゅじ)と報道されています。指導主事は都道府県及び市町村の教育委員会に置かれる専門的職員で教育公務員特例法上の専門的教育職員に位置づけられています。指導主事は学校教育をもっぱら担当しています。職務は上司の命を受け、学校における教育課程、学習指導その他学校教育に関する専門的事項の指導に関する事務に従事しているいわば「教育官僚」の先兵という存在です。
 どのような仕事をしているかといえば、教育委員会が所管する学校において、教育課程が適切に行われているかどうか把握し、適切でない場合は指導する。校長・教頭や教員に対する研修を行う。研究指定校に対して助言などを行う。さらに、教員の問題(例: 指導力不足、体罰)や児童・生徒の問題(例: 不登校、非行、校内での事故)に対して、校長・教頭を通して解決にあたるなど、教育現場全体に強力な権能を有しています。 
 一方、この指導主事の多くは学校現場の経験者から選抜されており、教育に関する専門的知識とともに、教育現場の実態や教師や父兄の要望や行動を熟知していることから、教育委員会の方針や施策を補強する役割も担っています。
 文部科学省と教育委員会の方針と学校現場と父母の声に挟まれて苦悩する指導主事が存在する反面、今回の事件を起こした指導主事のようにむき出しの「教育官僚」もうまれているのです。


狩猟採集時代(しゅりょうさいしゅうじだい)の人間は、太陽が昇れば起きて男は狩に行き、女は野草や木の実を採取しました。そうした中で、すべての生物が死と再生を繰り返していることを知ったのです。当然ながら、動物を殺し、加工することを「穢れ」などと考える人間はいません。長い夜、竪穴住居の中で、家族たちは森の中で吠える獣や、夜行性の鳥の声に怯える子供たちのために、祖父母や両親は森の物語を語り伝えたのです。<br />縄文時代(じょうもんじだい)は、約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)から約2,300年前(紀元前4世紀頃)までつづいたといわれているから、文字はなくてもたくさんの物語が生まれたのです。

​3、人間愛の欠落した官僚主義的人権教育​​

 ​このいじめ自殺事件の対応を見ると、特徴的なことは、関係者に人権侵害を解消していくための核となる人間愛が欠落し、組織防衛と自己保全・保身に汲々としていることです。こうした人たちには、差別を受けて苦しみ、悲しむ人の立場、いじめにより恐怖と精神的抑圧にさいなまれる人の立場になって考えることは到底できません。
 ではなぜこうした「さもしい人間」たちが教育委員会を牛耳り、学校や教職員を指導しているのか? それは教育が独立性を失い、行政機構に依存しているため、教育者としての心よりも、管理能力が優先されているためです。
 この隠ぺい行為には、教育という人間の尊厳と平等を教える基礎になる自由で創造的な行為と、組織の目標に向かって子どもや学校関係者を全体の部分としてとらえ、合理的・能率的に組織体の目標を達成させようとする官僚制との対立が絶えず存在していることを見落してはなりません。
​ 社会学者のマックス・ヴェーバー(Max Weber・ドイツ)は、国家において官僚制は強力な支配装置として機能し、支配関係を組織化し、すべての行為を「結社行為」として実現すると指摘しています。さらに、支配者自身は官僚制機構の外側に立ち、支配の道具として利用すると述べているように、指導主事は国家主義教育の先兵であるという側面を見落としてはなりません。​
 教育が支配の道具になり、官僚機構の従属物として扱われる限り、隠ぺいは続くのです。

​※教育とは自然の性、すなわち天性に従うことでなければならない。国家あるいは社会のためを目標とし、国民や公民になす教育は、人の本性を傷つけるものである。
ルソー(哲学者)

※教育こそが未来へのパスポートだ。明日という日は、今日準備をする人たちのものである。
マルコムX(米国の黒人公民権運動家)


明治までのアイヌ人の生活や信仰はこれに近いといわれていますね。この世のすべてのものには等しく神が宿っているとする信仰を持っており、神のような存在に対してアイヌ語で「カムイ」と呼んでいます。カムイは、日本語で言うところの「神」や「仏」に該当します。イオマンテというのはアイヌの儀礼のひとつで、動物を殺してその魂のカムイを神に返します。祭壇を祭って動物の頭部などを捧げ、お酒を供えてカムイにお帰りいただくのです。アイヌにはコロボックル伝説があります。彼らは背丈が低く、動きがすばやく、漁に巧みであった。又屋根をフキの葉で葺いた竪穴にすんでいたといいます。



4、日本政府の「さもしい人権教育」

 子どもの権利条約(以下「条約」)締約国の実施状況を国連に報告する『児童の権利に関する条約報告』が日本政府から2017年6月に提出されています。
 子どもの権利委員会が子どもの自殺について勧告した内容は「子どもおよび思春期の青少年の間で発生している自殺の問題に対応しようとする締約国の努力には留意しながらも、委員会は、自殺および自殺未遂に関連したリスク要因に対する調査研究が行われていないことを依然として懸念する」と、日本政府がまともに自殺の原因を究明していないことを批判し、さらに、「このように高度に競争的な学校環境が就学年齢層の子どものいじめ、精神障害、不登校、中途退学および自殺を助長している可能性があることも、懸念する」と自殺の原因にまで立ち入って指摘しています。
 ​これに対して日本政府の「報告書」は、競争的な学校環境が就学年齢層の子どものいじめ、精神障害、不登校、中途退学および自殺を助長しているという「根拠を示せ」と反論しているのです。​
 子どもたちを自殺に追い込む要因を科学的に調査し対策を講じることは、日本政府としては当然やらなければならないことですし、子どもの権利委員会の勧告に反論するうえでも重要なことです。しかし、やらずに居直る。この構図は「森友・加計問題」で嘘と強弁を続けた高級官僚たちの姿勢と同じですね。
 こうした姿勢が教育官僚の末端にまで浸透しているとしたら、今回の隠ぺいも決して不思議なことではありません。
 グローバル経済のもとで国際的な労働力の流動化、そして、AI化による産業の転換とともにはじまる労働市場の縮小という時代に直面し、子どもたちは勝ち抜くために幼児期から学力競争にさらされていることは誰が見てもわかります。しかし、それとともにストレスが蓄積し、攻撃行動が弱者に向けられ、子どもが自殺に追い込まれることは決してあってはなりません。
 にもかかわらず、政府が子どものいじめによる自殺を本気で無くそうとしていないことは明白です。その理由は簡単です。競争社会に勝ち抜く子どもを育てるのが国の教育方針だからです。
 自治体の教育委員会も相次ぐ教育関連法の改悪のために中立性と主体性を失いつつあります。また、教育現場の声を代弁し、教育行政に反映すべきはずの指導主事たちは官僚化し、学校現場の実態、苦悩する良心的な教師の意見、子どもたちの叫びが教育内容に反映しなくなっているのです。
 私たちは教育官僚に教育を任せることを真剣に考えなおすべき時代に来ているようですね。勿論、学校や教職員の教育活動を支える実務的な官僚組織は必要ですが、教育の内容まで「丸投げ」し、自分の子どもの成績と出世だけを考える「あさましい人間」になってはいけないのです。
 やさしい日本人に戻り、日本の教育のありかたを本気で考えなければならないようです。


※自ら命を絶った名も知らぬ少女へ​

​まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり​
『初恋』島崎藤村(詩人・作家)

​人間にとって苦悩に負けることは恥辱ではない。むしろ快楽に負けることこそ恥辱である。​
 ​ブレーズ・パスカル(フランスの哲学者)​


​​​​くるみ割り人形の故郷ドイツには熊がいない。現在、熊はアルプスの北側にしか生息していないそうです。<br />古代ゲルマン民族がドイツを開拓するなかで家畜を襲う熊を絶滅させたそうですね。遊牧民の宿命かもしれませんね。自然環境、中でも森を大切にする今のドイツ国民からは考えられませんね。<br />アイヌは熊を神だと考えていますから、必要以上に殺すことはありませんでした。その意識が日本人の心の底流に流れているせいか、弥生時代以後も里山を創り熊の生息域と人間社会をしっかりと区分してきましたね。だから熊が今でも全国いたるところにいるのです。<br />日本人は本当はやさしい。だから部落差別をなくしてきたのです。

戦争の引き金―偏見と差別について考えてみよう

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​戦争の引き金―偏見と差別について考えてみよう​​

異常な差別社会日本
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 日本がすごい差別社会だということがわかりましたね。女性は土俵に上がるな。医学部の受験点数は女性は2割引き。LGBTの人は生産性がないから国は支援するな。会社や学校ではセクハラ、パワハラが蔓延。とどめは障害者雇用を推進すべき中央省庁が水増し、中でも障害者の人権啓発を推進する法務省までが手を染めていたのには驚きを越えて絶望しかありません。
 差別社会とは国民の間に敵意や憎悪が蔓延し、反目し合う分裂社会です。かつて部落差別がその分裂支配の手段に利用されたという説がありました。しかし、部落差別だけでは分裂支配はできません。国民が様々な階層・分野において偏見と差別により抑圧されている差別社会の中でこそ効力を発揮するのです。
​ 「上見て暮らすな、下見て暮らせ」は支配者の論理といわれていましたが、抑圧から逃げる国民の論理でもあったようです。さらに、差別社会は往々にしてファシズム誕生の土壌となることを見落としてはなりません。​





​差別社会が生み出す敵意と憎悪​​
 テレビや新聞では毎日のように暴力事件や殺人事件が報道されない日はありませんね。こうした事件の内容を見ると、やはり加害者と被害者の間には敵意や憎悪が根底に存在しています。衝動的な無差別殺人にも社会制度や社会集団に対する敵意や憎悪が存在していますね。こうした犯罪者の敵意や憎悪による犯罪行為を肯定するわけにはいきませんが、人間に敵意や憎悪の感情が生まれる要因を知ることは犯罪を防ぐうえでも重要なことです。
​ 最も人間にとって重要なのは生命維持に関わる生理的欲求ですね。食欲(生命維持)や性欲(種族保存)をはじめ、睡眠や休息、苦痛回避といった欲求を人間は生まれつき持っているのです。差別社会は間接的にこうした生存を脅かせるような​抑圧感を与え続けます。その中で生まれるのが敵意と憎悪です。​​​
 ​​敵意と憎悪は当然ながら攻撃行動に転化していきます。

※「万人が万人に対して狼になる」 (『リヴァイアサン』ホッブス)

※攻撃は性あるいは生の本能(エロス)と対立する死の本能の派生物。 (『文化と不満』フロイト)

※すべての人間が平和主義者になるまで、あとどれくらいの時間がかかるのでしょうか?この問いに明確な答えを与えることはできません。しかし、今の私たちにもこう言うことは許されていると思うのです。文化の発展を促せば、戦争の終焉に向けて歩みだすことができる!
(「『ヒトはなぜ戦争をするのか?』アインシュタインとフロイトの往復書簡」フロイト )


敵意と憎悪から生まれる攻撃性
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 攻撃とは「他者に危害を加えようとする意図的行動」、すなわち身体的あるいは言語的に他者を傷つけようとすることです。さらに、「悪口・陰口」「罠にはめる」なども攻撃になりますね。陰で「部落」の悪口を言うのも攻撃の一種です。
​ この攻撃行動については社会心理学者の大渕憲一氏が、「衝動的攻撃」と「戦略的攻撃」に分類しています。「衝動的攻撃」は怒り、恐怖などの抑えがたい感情によって生じる攻撃行動です。「戦略的攻撃」は目的を達成するための攻撃です。強盗、復讐、叱責、あるいは戦争が含まれます。​
(大渕憲一著『人を傷つける心―攻撃性の社会心理学』・セレクション社会心理学) 
 こうして見てみると人間の心の中には攻撃本能が存在していることがわかりますね。
 この攻撃本能は人間社会が経済的・文化的に高度な発展を遂げ、近代的法治国家が成立し、法の支配が貫徹され、それが道徳・慣習としても一般的になる中で、理性の支配下におかれることになったのです。




​​攻撃性を攻撃行動に転化する偏見と差別​​
​ 国家間の利害が対立化すると、対立する国家に敵意と憎悪が生まれます。その敵意と憎悪を攻撃に転化する触媒の役割を果たすのが偏見と差別です。対立する国家に向けられた偏見と差別は国民の敵意と憎悪を正当化することにより攻撃性を高めます。それは「衝動的攻撃」(典型的事例・関東大震災での朝鮮人虐殺事件)を生み、やがて「戦略的攻撃」(日中戦争・第2次世界大戦)につながっていきます。​
 日本軍国主義は朝鮮半島を支配下に置くために、武力を背景に1905年条約(乙巳五条約・韓国保護条約)を結びました。その後、日本では「今では既に保護国となっている韓国の人民…その不潔であること、その怠惰であること…その薄っ馬鹿であることなどは、たしかに彼らの特有性である」(1908年8月15日『神戸新聞』)という報道が公然とされるようになりました。朝鮮人に対する偏見と差別は、歴史的に意図的に作られたのです。
 中国人に対する侮蔑語である「ちゃんころ」という言葉も、大東亜共栄圏を掲げて、日本が大陸に積極的に出兵する昭和初期から頻繁に使われるようになったといわれています。
 戦前の日本は天皇制を頂点とする華族制度、家父長制度、寄生地主制度など、戦後とは比べものにならないほどの差別社会でしたから、偏見と差別を利用して国内に敵をつくり、国民を結束させることにより外国との戦争を開始することは簡単であったように思います。

​​偏見と差別を巧みに攻撃行動に利用したナチスドイツ​​
 ヒトラーは古代から存在する宗教的差別を巧みに操り、ユダヤ人が社会におよぼす影響が大きすぎると批判し、ユダヤ人は世界制覇を目論んでいて、彼らはその計画に従って活動していると扇動しました。
​​ 当時のドイツもユダヤ人、黒人、ジプシー、障害者に対する差別が根強く存在する差別社会でした。第一次大戦の賠償で苦しむドイツ国民の抑圧感はこうした少数民族や弱者への「攻撃行動」に転化していったのです。この「攻撃行動」はナチスの進めたあのいまわしいユダヤ人絶滅計画(ホロコースト)へと突き進みます。 ​​
​ このナチスの残虐行為を伝える『語り伝えよ、子どもたちに』(S・ブルッフフェルド、P・A・レヴィ―ン著)の一部を紹介します。偏見と差別にまみれた時に現れる人間の正体に暗澹とした気持ちになります。​

​※ヤンケル・ヴィエルニク、トレブリンカの生存者の話​
ゼップと呼ばれるドイツ人は
鼻もちならない非人間的な男で、
子どもを痛めつけることに喜びを感じていた。
彼は女性たちを虐待し、
彼女らが子どもがいるからやめてくれるように懇願すると、
たいていの場合は母親の腕から子どもを引き離し、
子どもを真っ二つに引き裂いたり、
子どもを足で押さえつけて頭を壁に打ち付け、
体を放り投げることもあった。

​※ドイツ刑事局アルベルト・ヴィトマン博士と親衛隊中将アルトゥール・ネーベとの会話​
「ヴィトマン博士、犯罪技術研究所は大量の毒薬を生産することができますか?」
「何の目的で?人間を殺すためですか?」
「いいえ」
「では、動物を殺すためですか?」
「いいえ」
「では何のために?」
「人間の姿をした動物、つまり精神障害者を殺すためです。彼らはもはや人間とは言えず、治療の手段もないのです」

​◯相模原市「津久井やまゆり園」で入所者19人を刺殺、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた大量殺人事件の元職員植松聖の語った動機「彼らを生かすために莫大な費用がかかっている」は、日本社会に「優生思想」の水脈が存在していることを認識させた。​

​◯自民党の杉田水脈(みお)衆議院議員の発言「LGBTの人は『生産性がない』」という発言の本質も「優生思想」が存在しています。「生産性」のない人間ならば国家は見捨ててもいいのか?​




差別社会は戦争体制の土台​​
​ 差別社会においては国民は分裂状態におかれています。お笑い番組やスポーツイベントでは一体感(これは抑圧感からの逃避も含まれているようです)をみせることはありますが、一方、生存にかかわる問題については孤立しているために理性的な対話ができない。そのため政治に対する意見がまとまらない。その結果、「極論」を発信する政治家・政党、マスメディアの力に引きずられていくという状況が生まれています。​
 こうした状況の中から、自民党内からでさえ「嘘つき」と批判されている安倍内閣は、厚かましくも憲法9条を「改正」し、アメリカの進める戦争に参加できる道を開こうとしているのです。
 私たちは反対か賛成かを論じる前に、戦争は、人間を敵意と憎悪の奴隷にし、偏見と差別にまみれさせ、残虐な「攻撃行動」をとらせることを熟知しておかなければなりません。そのことを歴史から深く学び、「自衛隊員に戦争させればいい」という傍観者的立場からではなく、「自分は鬼となって人が殺せるか?」と、内なる問いかけをしてみる必要があります。そのうえで「嘘つき」安倍内閣の改憲に対する態度を決めるべきではないかと考えます。
​※戦争の責任は、偉い人や、政治家、資本家だけにあるとは思いません。そうでなく、名もない一般の人たちにも責任があるのです。そうでなかったら、世界中の人々は、とっくに立ち上がって、革命を起こしていたでしょう。​
  ​アンネ・フランク『アンネの日記』(文芸春秋社)​


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被災者の人権課題は現場から学ぼう ​​​阪神淡路大震災―東日本大震災―熊本地震―西日本豪雨と続く日本列島

​​被災者の人権課題は現場から学ぼう

​阪神淡路大震災―東日本大震災―熊本地震―西日本豪雨と続く日本列島​

​​ NPOまちづくり神戸の本多昭一理事長(京都府立大学名誉教授)は、ことあるごとに「被災者の人権課題は現場から学べ」と主張されている。
 災害は基本的人権を根底から破壊する。一度破壊された人権のすべてを回復することは困難だが、まだまだ何かできることはある。それを一生懸命考えるために被災地にゆき、砂ぼこりをかぶり、腐敗臭をかぎながら泥をかき、家具を運びだしながら本当に大切な課題を見つけ出してきた。(本ブログ・東日本大震災仮設自治会支援)
 私たちの支援力は小さい。しかし、小さいなりに阪神・淡路大震災から東日本大震災、熊本地震に対して継続的に支援を続けてきた。私たちの信念は、1.必ず被災者のそばにゆく 2.継続する 3.被災者を忘れない である。今回も7月14日(県外受け入れ初日)に4名のボランティアを急遽派遣した。
 今回は今までと違い支援場所が近い。本格的な支援活動はこれからはじまる。​






















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