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映画『君たちはどう生きるか』を観て考えた すすんで「異界」に入れ、君の眼前にある「壁」を壊せ

映画『君たちはどう生きるか』を観て考えた
​すすんで「異界」に入れ、君の眼前にある「壁」を壊せ​







​映画『君たちはどう生きるか』―考えてみようぜ​

映画館にコぺル君に会いにいったがいなかった。代わりに気味の悪いアオサギと、そいつに挑発されて「異界」に入り込むマザコンの眞人君に会った。
映画は難解といわれているが、観ているうちに宮崎監督のいくつかのメッセージに「気づいたような」気がした。
まさか、凡人に天才宮崎監督の真意がわかろうはずはない。しかし、飛びつけると確信を持って柳に飛びつく蛙の姿のように、無駄なあがきをするのを読んでもらうのも一興ではないか。
この映画、アオサギのくちばしの下から現れる邪心あふれる目は何を見ているのか?と、考えてみるだけで面白い。




 
​はじめに―「ジャニーズ帝国」とマスメディアの「忖度人権」​​

 日本人にとってはLGBTQの世界は「異界」であったろう。但し、これは未知と恐怖からではなく、無知から生まれている。「ジャニーズ帝国の総統」が行っていた「性加害」の真相は、イギリスのBBCの報道からはじまり、国連人権理事会の作業部会が調査し、「事務所のタレント数百人が性的搾取と虐待に巻き込まれるという深く憂慮すべき疑惑が明らかになった」という結果が報告されるに至って、未成年に対する人類史上稀にみる凶悪犯罪であることが白日のもとにさらされた。さらに深刻なのは「日本のメディアは数十年にもわたりこの不祥事のもみ消しに加担したと伝えられている」と、マスメディアの責任まで言及されたことである。
 吹けば飛ぶような小組織でありながら生意気にも、私たちはこの本ブログで日本のマスメディアは「人権」という言葉を大仰に使用するが、
 「長いものにはまかれろ!」
 「よらば大樹の陰」
 「泣く子と地頭には勝てぬ」
 「論より儲け」
​​ という「奴隷根性」を基礎とする「忖度人権」であることを指摘してきた。​​
 「部落解放同盟」(「解放同盟」)による教育史上未曾有の教師に対する集団暴力事件である八鹿高校事件は報道しなかったし、麻生太郎元総理による野中広務氏に対する部落差別発言は黙殺した。さらに、元大阪市長橋下徹氏に対する『週刊朝日』による差別記事の真相を未解明のままに放置している。権威と権力への忖度、暴力への無力さが日本のマスメディアの基層なのだ。
 このようなマスメディアが水平社創立100周年を期して、一斉に「解放同盟」を水平社の後継団体と持ち上げ、ともに「包括的差別禁止法」を作れと大合唱しているから噴飯ものではないか。
 小説『君たちはどう生きるか』の主人公のコぺル君は、いじめにあう友人を助ける勇気がなかったことを深く悩み、病気になり寝込んだ。マスメディアに問いたい、「君たちはどう生きるのか」。

​※関連記事・2022年06月20日・「水平社創立100周年記念報道を検証しました-私たちの夢は150周年、200周年は静かに迎えることだ」​​
​※関連記事・2012年12月06日・「『週刊朝日』橋下徹大阪市長連載記事に対する意見書その2」​​







​​​​​​​​山本有三は日本国憲法をひらがな書き口語文にしたすごい人だ​​​​​​​​

1887(明治20)年、栃木市に生まれた。大正期半ばに劇作家として出発し、「坂崎出羽守」「同志の人々」などで有名作家となる。大正末期には小説の世界に進出し、「波」「女の一生」や国民的作品の「路傍の石」を執筆するとともに、日中戦争のはじまる年にコぺル君の登場する「君たちはどう生きるか」など、子ども向けの小説「日本少国民文庫」(全16巻)の編集、出版をした。
​​戦後は参議院議員としても活躍し、主に国語教科書の編集に携わった。山本の思想を示すエピソードで有名なのは、当初、日本国憲法がカタカナ書きの文語体であったのをひらがな書き口語文に変えるように政府に働きかけ、変えさせたことである。​​
生涯、国民の側に立ち、自由と民主主義を愛した人物である。





​​1、宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』の「異界」​​​

 宮崎駿監督が制作した最新アニメーション映画『君たちはどう生きるか』は難解であると言われているが、昔から宮崎監督の創造する「異界」が、好きなのでいつものように観に行った。
 映画は以下の内容である。太平洋戦争末期、米軍の空襲の炎で焼死した母親に対する強い思慕を持つ主人公眞人(まひと)が、東京を離れて大富豪の屋敷に疎開する。疎開先で一緒に暮らすことになる亡き母の妹・夏子。夏子は父親の妻となり、すでに子どもを宿している。
 亡き実母への思慕と新しい母親への複雑な感情を抱える眞人に関わろうとするアオサギ。アオサギは昔、本を読みすぎて姿を消してしまった青鷺屋敷の主・大叔父が建設した尖塔のある洋館に住み着いている。ある日、身重の夏子が森に入っていく姿を見る。その後、夏子は行方不明となったと騒がれる。眞人は老婆の一人と森に入り異界へと引きずり込まれる。
 その「異界」は死と生の同化した場であり、「ワラワラ」という風船のような白い生命体が、天上に舞い上がることにより、地上において新しい生命として生まれるという。その「ワラワラ」が天上に上るとき、無数のペリカンが「ワラワラ」を襲い消滅させようとする。このペリカンは新しい生命の敵対者なのである。
 眞人は夏子をさがすためにインコが支配する世界へ入り込むが、インコ軍団につかまる。そこで火をつかさどる少女・ヒミに助けられる。このヒミは眞人の実母の若き姿であった。そして、「異界」をつかさどる大叔父と出会い、「異界」の秩序と調和をつかさどる使徒の跡継ぎをすることを依頼されるが、「愚かな現実世界のほうがいい」と夏子を連れて元の世界に戻るというストーリーだ。
​​​​​​





​​「異界物語」の傑作-大江山の鬼退治の紹介​​

『大江山絵巻(絵詞)』(—逸翁美術館所蔵)
『大江山絵詞』(大江山絵巻)によるあらすじは次のとおりである。
​​一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った。安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼(酒呑童子)の仕業とわかった。​​
​そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた。​

※関連記事・2020年08月26日・「消えゆく『部落民』―心のゴースト⑧​​​ ―京都『この世』『あの世』『異界』めぐりの旅―」​​





2、宮崎監督の「異界」の基層にある問いは戦争である
​​


 この映画の根源には戦争についての三つの問いかけがあると思われる。

 一つは同名の小説『君たちはどう生きるか』という「吉野源三郎の作品からタイトルを借りた。」(映画パンフレットより)とあるように、戦争に向かう国家の中で、少年たちへの「どう生きるか」という「ギリギリ」の問いかけである。
 二つ目は映画の最初の部分で疎開途中の眞人が出会う三式中戦車(チヌ車)隊の行軍である。これは単に戦時下のドサクサを表現しているわけではない。終戦直前に戦車連隊の戦車長をしていた国民的作家司馬遼太郎生誕100周年へのオマージュであると考えられる。これは戦争体験者からの問いかけである。
 物語はこの二つの「問い」を基層にして、宮崎監督の三つ目の「問い」が加わる。それは米軍の空襲による母親の焼死に打ちのめされ傷ついている眞人の前に、腹の中にすでに新しい命を宿す新しい母親が現れることで、真の家族愛と少年から大人への成長の意味を問いかける。
 宮崎監督はそれらのエレメントを、ケーキのミルフィーユ(仏語・千の葉)のように、幾重にも重ねている。観客がそのミルフィーユを口に入れると、その味は舌から脳に衝撃を与え、脳内で七色の粒子に粉砕され、多種・多彩な色彩をまとう景色や摩訶不思議な生物たちに再構成され「異界」となる。観客はなすすべなく、その中に耽溺させられ、無心となり物語に同化させられる。そして、それぞれの人生に合わせて戦争に直面した時、「君たちはどう生きるか」が問いかけられるのだ。
 ​タモリさんの語った「新しい戦前のはじまり」と重なる。​






​京都・晴明神社―「異界物語」の主役安倍晴明​​

​都で起こる怪現象の原因を突き止めたのは陰陽師の安倍晴明であった。ここで注目すべきは政治と呪術が緊密に結びついていることである。 ​
古代においては原因不明な病気その他の人間と社会に災いをもたらすものを「鬼」と表現し、陰陽師はその害を祓う儀式や祈祷を行ったのである。そのスーパースターが安倍晴明であった。
この座像は京都市上京区の晴明神社にある。境内には復元された一条戻り橋があり、その脇に愛嬌のある式神(晴明の手下の鬼)がいるが、アニメのキャラクターのようにとても可愛い。



​​3、問いかけ1-山本有三と吉野源三郎の「ギリギリの抵抗」​​


 「君たちはどう生きるか」は作家・山本有三が中心となって編集した「日本少国民文庫」(全16巻)の一冊として出版された。この文庫の初刊は日中戦争(支那事変)がはじまった1937(昭和12)年であり、日本国民全体が戦争に熱狂していく時代であった。後世、山本有三の自由主義者としての「ギリギリの抵抗」だといわれている。

 著者の吉野源三郎は社会主義運動に参加し、1931年(昭和6)年に治安維持法事件で逮捕され、懲役2年執行猶予4年の有罪判決を受けた。山本は吉野の身元引き受け人であったことから、吉野を「日本少国民文庫」編集主任に就任させ、『君たちはどう生きるか』を執筆させたのである。
 旧制中学二年(15歳)の主人公であるコペル君こと本田潤一の家庭は父親は亡くなるまで銀行の重役で、家には女中とばあやがいる。友人たちの家庭も実業家や陸軍の幹部などで、当時の庶民とは一線を画すような裕福な家庭環境にある。貧困な友人とされる豆腐屋さんの息子もいるが、職人を雇い商売しているから本当の意味で貧困と言えるかどうかわからない。
 コペル君はこの友人たちと学校生活を送るなかで、自分と社会の関係性、労働や貧困の本質、コペルニクスの「天動説」から学ぶ真理に対する強い信念を持つことの大切さ、ナポレオンの英雄としての資質を称賛しながらも、戦争の持つ悲劇性などを学ぶ。さらに、学校で、友人がいじめに遭っているのに勇気をもって止められなかった精神的弱さを深く反省し、真の友情の大切さを学ぶという物語である。
 これらひとつひとつの物語を深める手法として、コペル君から話を聞いた叔父さんが一話ごとにコペル君に書いた助言(感想)により、「ものの見方」や社会の「構造」、「関係性」といった哲学や社会科学的な見解が加えられ、より深い人間の本質に迫る。
 最後にコペル君は叔父への返答として、ノートに「自分の将来の生き方」について決意を書き綴り、語り手が読者に対して「君たちは、どう生きるか」とたずねて、この小説は終わる。
 この小説が出版された4年後の1941年には太平洋戦争がはじまり、1945年まで続く。この歴史に沿ってコぺル君たちの人生を予測すると、​コぺル君たちは大学には入り、学徒動員で招集されることになる。そして、司馬遼太郎のように戦地に派遣されることになったはずである。​
 ​新しい戦前のはじまりを阻止できる「ギリギリの抵抗地点」で、この物語は出版されていたのだ。​






​山に住む老人 -鬼は神仏の敵であった​​

源頼光一行は、酒呑童子一味に気づかれぬように山伏姿に変装して大江山に入る。
​頼光たちは山道に迷い、霧に包まれ困っている時に、山に住むという三人の老人たちと会い、道案内をしてもらい、鬼の棲みかの見える場所に来ると、神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)という人間が飲めば百人力となり、鬼が飲めば体がしびれるという酒をあたえられる。​








​鬼は朝夕血肉を食らう異人​​

頼光一行が谷川に出ると、そこには都からさらわれてきた夫人がなきながら洗濯をしていた。事情を聞くと、「私は都からさらわれてきた。朝夕血肉をくわされ、この世の生活とはおもわれない毎日を送っている。さらに鬼たちは得体のしれない言葉をあやつっている」というのである。
鬼は肉食し、都の人間にはわからない言葉を使うというのである。まさに異人なのである。
平安時代は仏教により、肉食は禁じられていた。そして、異人は敵視し、排除してもかまわない存在なのであった。




​4、問いかけ2-宮崎監督と司馬遼太郎の戦争​​

 宮崎監督は司馬さんと何度か対談している。『時代の風韻』(朝日文庫)では、二人は第2次大戦の敗戦について語り合っている。
 宮崎監督は「私は敗戦の時、四歳でしたが、八月十五日でほんとに自分たちの前で全部プッツンと切れたという感じが、実感としてあるのです。この歴史感覚のブラックホールから、なかなか抜け出せずにいるのですが.....。」
​ 司馬さんは「私はその年の早春に、所属していた戦車連隊ぐるみで満州から帰ってきて、敵の本土上陸にそなえるために関東地方にいました。(中略)八月十五日はホッとしましたよ。これが第一に思ったことです。さらに付け加え、「二つ目になんでこんな馬鹿な国に生まれたんだろう、ということでした。指導者がおろかだったというのは、二十二歳でもわかっていました。しかし、昔の日本は違ったろうと思ったんです」と語り、日本とは何か?を物書きとして探求してきたことを語っている。​
​ これに対して、宮崎監督は「私は敗戦後、学校とNHKのラジオで、日本は四等国でじつに愚かな国であったという話ばかり聞きました。実際、中国人を殺したと自慢話をする人もいましたし、ほんとうにダメな国に生まれたと感じていたので、農村の風景を見ますと、農家のかやぶきの下は、人身売買と迷信と家父長制と、そのほかありとあらゆる非人間的な行為が行われる闇の世界だというふうに思いました。」と、日本という国に対する精神的な落胆から回復するために長い時間がかかったことを語る。​
 終戦の年、宮崎監督は四歳、司馬さんは二十二歳であったが、両者は敗戦という事実を目前にして日本とは何か?という問題意識に目覚め、司馬さんは歴史小説の世界で独自の解明を行い、宮崎監督はアニメーションという手法で探求していく。
​ その後、この二人は『日本人への遺言-日本人、そして世界はどこへゆくか』(朝日文庫)でも対談している。司馬さんは大変な宮崎監督ファンらしく、「宮崎さんの作品は本当によく見ているんですが(笑い)、『となりのトトロ』では、親玉のようなトトロと小さなトトロが出てきて、どれも形がいいですね。親玉トトロのおなかのふわふわしたところとかね。ああいう生き物としてのぬめりのような表情が、芸術の本質だと思っています。」と、宮崎アニメの魅力を語る。それに対して、宮崎監督は「みんな妄想なんです。ぼくの妄想以外何ものでもないんです。昔から、元気な森の中には恐ろしい物の怪がたくさんいるという妄想がありまして.....。じつは、いまとりかかっている映画にも物の怪が出てきます。森を切る人間と、それとたたかう神々の話で、神々は獣の形をして出てきます。」​
 この対談が行われた正確な日時はわからないが、この対談が『週刊朝日』で発表されたのは1996年1月5・12日号であるから、司馬さんが急逝するひと月前のことである。そのことは恐らく宮崎監督に大きな衝撃を与えたに違いないのである。
​ 宮崎監督が司馬さんの「馬鹿な国」の「おろかな戦争」という遺言を、この映画にちりばめていることは間違いないようだ。​






​​神様の加護を受けて鬼を討ち取る​​

​頼光一行はこの夫人に教えられ、酒呑童子の棲む『鬼の岩屋』にたどりついた。怪しむ酒呑童子を美酒を所持していると欺き、酒宴を開かせ、神便鬼毒酒を酒呑童子に飲ませて酔いつぶれたところを襲い討ち取った。​
これはだまし討ちだ。 
倭建命(やまとたけるのみこと)が熊襲(くまそ)征討・東国征討を行った時以来の大和朝廷の常套手段である。
頼光はだまし討ちを教えてくれたあの三人の老人は八幡・熊野・住吉の神様と確信して感謝する。
​​
※関連記事・2023年07月24日・「国民的作家司馬遼太郎と部落問題 生誕100周年―貴方への確認・糾弾は完全に誤りでした」​​





​​5、問いかけ3-「異界」が示唆した「どう生きるか」とは​​


 宮崎監督は自分の作品を「自分の妄想」から生まれたというが、宮崎監督の「妄想」というのは精神医学上で言う、事実でないことを事実であると強く思いこみ、まわりの意見や情報が耳に入らない状態に陥ることではない。この種の妄想による事件は後を絶たない。「京都アニメ事件」の犯人は自分勝手な妄想により、憎悪の果てに放火し、多くの罪のない人間を殺した。裁判が始まる中、犯人の心理の根底に、恵まれなかった家庭環境からくる人間不信と格差社会から取り残される深い失望感などから生まれた「心の闇」が、筋違いの憎悪感情を「京都アニメ」に向けることで事件を引き起こしたことが明らかになってきた。

 宮崎監督の「妄想」というのは「空想」のことである。空想は実際には経験していない事柄を推測すること、また現実には存在しない事柄を頭の中に思い描くことである。「空想」する人は現実世界ではありえない事に対して、強い憧れや興味をもっている。映画や小説でファンタジーの世界を描くためには「空想力」が必要なのである。 
 この「空想」が根差しているのは現実社会である。宮崎監督のアニメの世界は現実社会の変化を深く分析し、社会に生起している諸問題の本質を把握し、その課題と解決方向を「異界」を舞台にしたエンターテインメントに仕上げた芸術作品なのである。ゆえに内容は徹頭徹尾理性的で憎悪感情や差別感情が存在しない。
 では宮崎監督の得意とする「異界」について深めてみよう。
 「異界」とは、「われわれの世界」とは別の世界、未知の生物や魑魅魍魎・妖怪らが住む「かれらの世界」である。私たちは「われわれの社会」を築き、生きている。その社会には家族や友人、慣れ親しんだ習慣や習俗が存在し、秩序づけられた友好的な社会である。「異界」は「かれら」の住む社会であり、そこは危険に満ちた無秩序な世界であり、不安と恐怖につきまとわれる。つまり「われら」と「かれら」は分断されているので、時には激しく敵対する。
 「われら」という自己中心的認識で様々な「異界」は長い歴史の中でカテゴリー化され、区分されてきた。例えば、霊魂が行くところは他界(来世)であるが、幽霊のいる場所である幽界とは区別されている。「異界」は水木しげるさんの功績もあってか、現在ではほぼ妖怪が住む世界を指すことになっているようだ。
 本映画の「異界」は生と死が同化する世界である。そこで若き実母に出会い、実母とともにオウム軍団に囚われた義母を救い、現世に戻る。これは実母への思慕を記憶化し、義母を母親として受容していく少年の精神的成長過程をエンターテインメントに仕上げたのである。 
​ 眞人は物語の最後に、「異界」に残るように薦める大伯父に対して、「どんなに愚かでも、もとの世界のほうがいい」と言い放つ。この映画の三つの問いかけの答えはここにあるようだ。​
 宮崎監督が「君たちはどう生きるか」という映画に秘めたメッセージはどんな状況におかれても、「現実から逃げるな」ということなのだ。







​​日本の鬼の交流博物館(京都府福知山市)​

日本人の創造した「異界」の主人公として最も有名な大江山の酒呑童子伝説を探るために、大江山山麓にある鬼伝説をテーマとする博物館を訪ねた。
博物館は大江山に残る伝説を、「町おこし」の起爆剤とするために1993(平成5)年4月に開館した。
 中に入ると、日本の鬼だけでなく世界の鬼がわかるように文書や仮面、彫刻などが展示されている。
館内を廻ると、鬼という存在は、人間社会の不条理が生み出す苦しみや悲しみから生まれる怒りや怨念が生み出したキャラクターであることがわかる。







​​日本の鬼の交流博物館―戦前の国定教科書
「大江山の鬼退治」は軍国主義教育に利用されていた
 
展示物の中に、戦前の小学校2年の教科書に「大江山」がある。
子どもたちは天子様(天皇)に背いた酒呑童子が天子様の命を受けた源頼光らに討たれる赤鬼の物語を学んでいたのである。
鬼は心の中に創られる。こどもは未知の世界に対する関心が強いが、恐怖感情を伴う。天皇絶対主義・軍国主義時代においては、鬼は「われら」の世界を侵略する「かれら」としてイメージ化され、頭に刷り込まれていたのである。
​ 「鬼畜米英」​
米英は「異界」の鬼であった。​​

​※関連記事・2019年10月10日・「私たちは人権社会を実現すると称して『憎悪の種』をまいてはいないかー京都アニメーションの事件現場を訪ねて」​​





​6、「われら対、かれら」から考える「異界」​​


 「異界」の観念は「領域」の観念と深く関わっている。お互いに「領域」が定められているから、「われらの世界」と「かれらの世界」となる。「領域」とは、「あるモノ」が領有している、もしくは勢力下に置いている地域という意味と、そのものの関係する範囲、対象とする範囲という意味がある。宮崎監督は『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』等で鮮やかにその世界を見せてくれる。
 この「領域」という概念は人間社会の反映なのである。宮崎監督は「われら」の社会とは異なる外見や風俗習慣を持つ「かれら」を同等もしくはそれ以上の存在として描いた。しかし、人間社会では、「われら」の「領域」の外部から訪れる人は「異界」の住人、異人と呼ばれ、あまり歓迎すべき存在ではない。戦前においては童謡の「赤い靴」にあるように、外国人は「異人さん」と呼ばれていた。 
 さらに、外国人のみならず、封建社会において賤民といわれていた「部落民」や芸能民・山人なども、人為的につくられた身分という「領域」の中で、長い間、異人として認識されていたようである。実際に巷では「部落民」は夜になると蛇のように体が冷たくなるという伝承などもあったらしいから、人間を妖怪視することで差別を正当化する時代もあったようである。
 身分制は「われら」と「かれら」の「領域」が固定化されなければ役に立たない。固定化するために「壁」が必要となる。「壁」となるのは人間と人間社会を分断する制度とイデオロギーである。現代社会は封建制度が崩壊し、イデオロギーは根拠を失っているはずだが、当然ながら習慣・習俗に残るイデオロギーが消滅するまでには時差が生じる。なぜなら、それらを「壁」と認識するには人間には高い人権認識が必要とされるからだ。






​日本の鬼の交流博物館―山伏姿の源頼光たち​​

交流博物館への道路の脇に設置されている。頼光たちが酒呑童子の屋敷を探す場面であるが、像は針金で骨組を作り、うえからコンクリートで塑像し、色ペンキを塗ったものであるから、リアリティがなく、とても漫画チックである。
いまや鬼は妖怪アニメや漫画の敵役。それを退治するヒーローたちは厳めしい石像やブロンズ像よりも親しみやすいようだから、これでいいのだ。




​7、すすんで「異界」に入れ、君の眼前にある「壁」を壊せ​​

 「領域」と「領域」との間には当然ながら「壁」が存在する。私たちはなぜ「壁」をつくるのだろうか?もし「壁」を造ることがなければ、人と人、家庭や学校、社会だけでなく、民族・国家における関係は、もっと暮らしやすく平和になるはずであるが、人間が「壁」を造る生物であったことは、進化の過程から考えると簡単なことなのだ。生物には生存と生殖という進化のためのプログラムが存在する。 
 もともと人間の生命は個別的であるから、「われ」と「かれ」からはじまり、有限な生命は厳しい生存競争を経て、集団を生み出す。その過程において「われら」と「かれら」という概念が成立したのである。 人間は生存するために直立歩行を獲得し、脳を発達させる条件を広げた。さらに、長い狩猟採取時代を経て言語と社会関係が相互に関連し合い、理性を司る大脳皮質を発達させた。特に言語は、人間の抽象的思考能力を発達させ、哲学、宗教や政治道徳などを生み出し、民族や国家を生み出す原動力となったのである。
 もともと「われら」と「かれら」という概念は決して対立概念ではない。対立をつくる「壁」の本質は、厳しい生存競争のもとで、どちらかがどちらかに対して恐怖や憎悪から敵意を持つことによりそうなったのである。しかし、もはやこうした「壁」は時代遅れとなっている。
 人類生存の危機である核戦争、「地球沸騰化」による異常気象、コロナウイルスによるパンデミックにみられるように、個人はもとより民族や国家を単位とする解決は不可能である。もはや、国家や体制、民族や人種の「壁」は無用なものになっている。こうした情勢のもとで、同じ民族内で旧身分という「妄想」にとらわれている極一部の人たちが支えようとする「部落」という「壁」は、何の意味も持たないことを強く認識すべきである。グローバルな情報社会にふさわしく「われら」と「かれら」に関する情報の交流、協力と連帯による「壁」の破壊が急務なのである。
 ​映画の最後に壁が破壊され、領域が消滅していく場面は宮崎監督の未来へのメッセージのようである。​






​日本の鬼の交流博物館-酒を飲む呑鬼(のんき)​​

交流博物館の入口付近に設置されている青鬼、呑鬼という。
科学の進歩は、妖怪や鬼が存在していないことを完全に証明した。その代り、人間の空想力と想像力で妖怪や鬼は自由に組成されることになった。その結果、恐怖や強迫観念を与える妖怪や鬼は減少し、人間に近い、人間に愛される妖怪や鬼が激増してきた。
博物館の資料によれば、呑鬼の好物は大江町の特産「手長エビ」らしい。鬼も愛嬌があり、子どもに好かれなければならないようだ。




 ​​最後に―人権・同和教育や啓発で「異界」をつくらせるな​​​​
 
​ かつて「部落差別に比べれば他の人権侵害はたいしたことがない」という言葉をよく聞いた。その根拠は、部落差別が「もっとも深刻にして重大な社会問題である」(同和対策審議会答申・1965年8月11日)と位置づけられ、国民の間に定着させられてきたことである。​
​ 日本における人権問題の最高ランクは部落差別であった。「もっとも深刻」ゆえに早急に解決すべき課題として位置づけられ、政府、自治体、教育機関、教育団体によって、熱心に人権・同和教育や啓発が進められたことは承知のとおりだ。​
​ 「人権教育啓発法」では「部落差別」の解消が反映して、同和問題は「もっとも深刻」という位置づけではなくなった。しかし、多くの自治体では旧態依然として、「部落差別」を最重点とする「差別あるある」の人権・同和教育や啓発が続けられているために、差別の実態とは乖離した「空想的差別」が広がり、国民の中に新しい「部落」への関心と得体のしれない恐怖を生み出しているようである。 ​
 私たちはそこから異常な空想が生まれ、私たちの想像をこえる「異界」としての「部落」が創造され、部落問題が混乱していく事を危惧している。
 「部落差別」の解決が最終段階に達し、「われら」と「かれら」の「壁」がほとんどなくなっている時代に、わざわざ行政や部落解放団体は「壁」を再建するような同和教育はやめようではないか。また、部落解放運動の存続を自己目的化した部落解放運動もやめようではないか。






​​「ジャニーズ帝国」の心の闇を問い詰めよ​​

いつの時代も、人間は、個人レベルであれ、集団レベルであれ、その内部と外部の双方に制御しえない「闇=異界」を抱え込んでいた。そのために、私たちの先祖は、こうした異界人や妖怪に脅かされれたり、それとたたかって退治・追放したり、同盟・協調関係をつくりあげるといった様々な物語を生み出し語り伝えることになったのである。
新しい鬼の物語が生まれようとしている。ジャニー喜多川の心の闇に潜む鬼は陰湿で残忍なものだったが、それを庇い続けた人々の心の闇はもっと深いはずだ。
この闇を照らすことなく、放置したらどうなるか?
誰がこの鬼を退治するのか。少なくとも今のマスメディアではないようだ。

●博物館前庭には日本一の大鬼瓦(高さ5 メートル、重さ10 トン)がある。
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国民的作家司馬遼太郎と部落問題 生誕100周年―貴方への確認・糾弾は完全に誤りでした

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​​​​​​ 国民的作家司馬遼太郎と部落問題 ​​​

​​ 生誕100周年ー 貴方への確認・糾弾は完全に誤りでした​​​




​司馬遼太郎の熱狂的ファンなのです​

どうでもいいことだが、私(森元憲昭)は高校時代からの司馬ファンである。小説はほぼ全部読んでいる。読んだ小説は古本屋に売るか、友人にあげるか、捨てるかして本棚には残していない。
紀行、評論、対談、講演集などもほぼ読んだが、頭が悪いのでほぼ忘れた。必要な時に読み返すために、これらの本だけは保存している。 
​私は「シン・司馬ファン」を自認しているから、司馬史観を批判する本も読んでいる。​
この「シン」とは「真」という意味で、社会の変化に合わせて司馬さんの本質を理解するという意味だ。。





 はじめに

 最近、日本人の後進性について考える機会がふえた。「入管法改正」に見られる難民への人権侵害、「LBGT理解増進法」に見られる性的マイノリティに対する根強い偏見など、「人を人と思わない」爬虫類の発するような冷酷な殺気が胸に刺さる。 
 私たちは差別・偏見を考える時、「人間とは何か?」という古代ギリシアの哲人たちの疑問や中世キリスト教の暗黒時代を切り裂いた自然科学者たちの問い続けた命題に突き当たる。
​ その答えはないのか?
 司馬遼太郎は歴史小説を書くことで、「人間とは?」「日本人とは何か」を問い続けてきた。その問題意識の発端は「二十二歳(昭和二十年八月一五日―日本の敗戦の日―)の私自身への手紙のつもりです。」という言葉を様々な作品で残しているように、日本に大惨禍をもたらした第2次大戦の原因を日本の歴史の中から答えを探し出す道のりでもあった。
 その司馬さんが「解放同盟」に確認・糾弾された。
  私が司馬さんが「解放同盟」に確認・糾弾されたという事実を知ったのは、『司馬遼太郎が考えたこと・12-「〝長吏〟と人間の尊厳について」』(新潮文庫)の記述を読んだからであった。それからいくつかの作品の中で、部落問題の記述があることに気づいた。 
 そして、『人権と部落問題』(2022年11月号・公益社団法人部落問題研究所)に桑原律氏(部落問題研究所文芸研究会)が「司馬遼太郎作『竜馬がゆく』の賤称語使用問題」という小論で、問題点を簡潔・明瞭に指摘されているのを知った。 
​ 屋上屋を重ねることになるとは知りつつ、部落問題関連本より多くの司馬本を読んできた「シン・司馬ファン」としても黙過できないと思い、問題提起させていただくことにした。​





司馬遼太郎記念館を訪ねる(大阪府東大阪市)

門に入ると小さな庭があり、雑木林となっている。その庭は司馬遼太郎が好んだ雑木林をイメージしたものであるという。雑木林に小さな小径がある。その道をたどると途中、司馬さんの書斎が晩年に使用した時のまま残されており、書斎は庭からガラス窓ごしに見学することができる。
挨拶してそのまま歩いていく。中に入るとこれらの作品のために使用した6万冊に及ぶ多くの蔵書、資料、司馬さんの作品やそのなかには小さなホールもありNHKの映像を編集したものを上映している。
司馬遼太郎記念財団が生誕100周年を記念して調査した全司馬作品の累計発行部数は、2億673万部に達するという。
これまで出版された紙・電子を合せた累計発行部数のランキングで1位だったのは「竜馬がゆく」で2496万部。2位が「坂の上の雲」で1987万部、3位は「街道をゆく」で1224万部だった。
​死してなお司馬さんは現代人の心を揺り動かしている。​





​1、「解放同盟」のみなさんは司馬遼太郎のすごさに圧倒されたようだ​​

 『解放新聞』(1984年1月23日)によれば、1983年12月12日、午後三時半から京都部落解放センターで、部落解放同盟京都府連による作家司馬遼太郎さんの、差別確認糾弾会がひらかれたとある。同紙の記事によると、この確認・糾弾会がひらかれた理由は、京都新聞夕刊(同年9月16日付)の広告欄に掲載された京都市の酒造メーカー数社が、宣伝のひとつとして募集した「銘柄クイズ」の中で、『竜馬がゆく』第4巻・怒涛編の「伏見寺田屋」の章で使用されていた 「ちょうりんぼう(馬鹿め)!」という表現が「差別語」であるという理由からである。
 その「差別語」とは、幕府の捕り方が多勢で寺田屋に宿泊する竜馬を襲撃するが、後に妻となるお龍の捨て身の知らせで、竜馬が当時としては珍しいピストル(短銃)で応戦するも左手の親指に深い刀傷を受け、寺田屋から脱出するという劇的な場面である。その中で、竜馬が襲いかかる刺客に向って「『ちょうりんぼう(馬鹿め)!』と、上機嫌でわめいたが、」と、使用されていた。 
 『解放新聞』(前出)によれば、「この日、約150人の部落大衆が参加、司馬さんに、賤称語を使った経過や、部落問題に対する認識を問うた」とある。これに対して司馬さんは「〝長吏〟と人間の尊厳について」という反省文を読み上げて陳謝するとともに、「賤称語とは知らずに使ったと釈明した」。 
 司馬さんの反省文は歴史小説家らしく実証的で明快であったため、『解放新聞』(前出)の記事によれば確認糾弾会の最後に、異例なことに、司馬さんのこの決意を「全員で確認した」と結んでいるところから推測して、「解放同盟」の皆さんから批判や反論はほとんど無かったようである。 司馬さんはこの時のことを、「去年、私は、二十余年前の著作である『竜馬がゆく』に「差別語」が数ヶ所でているということで、部落解放同盟の京都府連から糾弾された。この時に原田伴彦氏いっさい相談もしなかった。これは著者である私一人の問題で、一人出てゆくべきことだと思ったのである。おかげで得るところが多かった。」と回想している。(『司馬遼太郎が考えたこと・12―「精神の名人」』新潮文庫)

>※原田 伴彦(1917年3月11日生-1983年12月8日没)は、日本史学者、大阪市立大学名誉教授。
>1953年から1966年まで部落問題研究所理事、1967年から1983年まで大阪市同和対策審議会委員を務めた。また1968年から1983年まで部落解放研究所初代理事長となる。部落史研究を行い業績を残し、1975年松本治一郎賞を受賞している。





​​『解放新聞』(1984年1月23日)司馬さん糾弾の記事​​

記事には京都新聞の広告欄に「銘酒クイズ」が掲載され、その中に「ちょうりんぼう(ばかめ)!」の部落への賤称語が使われていることを同新聞社や広告会社をただしたところ、司馬さんの小説『竜馬がゆく』が出典先であることがわかって、司馬さんの確認・糾弾会を開いたとある。
小説を読んで問題にしたわけではなかった。




2、司馬遼太郎には「部落」に対する差別・偏見などなかった
​​

 この反省文は『解放新聞』(1984年1月23日)にも掲載されているが、それは『司馬遼太郎が考えたこと・12-「〝長吏〟と人間の尊厳について」』新潮文庫)にも全文収録されているので、それを紹介することにする。
 ◯「私事からいうが、人間には慢ずるということがよろしくない。私は1955年ごろから、独学ながら被差別者の問題に関心をもち、三十年近く考え、実証としてこれほど根拠のない差別は地球上にないと思っていた。でありながら、二十年前の私自身の作品の中に「ちょうりんぼう」という言葉を「馬鹿め」として罵倒語を数ヶ所使っているという。」
​​ ◯「『へえあれは被差別者をさすことばですか』と先輩の奈良本辰也​氏​に教えられて、60歳になって知った。奈良本氏は山口県の人だが、自分の国の方言ではそうです、といわれた。なるほど調べてみると、関東でも、そうである。」​​
 ◯「その作品は拙作『竜馬がゆく』である。数ヶ所に、罵倒語として使っている。奈良本氏の教示があったあと、すぐに削るように出版社(文芸春秋)に指示した。」
​ ◯「この作品の場合は、古い土佐弁を学び、当時、簡単なノート式の方言帳をつくった。そこに「ちょうりんぼう」が出ているのだが、もともと土佐にあっては、元意味(もといみ)がずっと以前からずれてしまっていて、単なる罵倒語になっていた(と思っていた)。それでも、私自身、元意味を知らなかったというのは、自分に対して許しがたいし、さらには、人間の尊厳に対するはなはだしい甘さというべきである。」​
 ◯「ついでながら、この一文は、最近生起した京都新聞の広告事件とは、私においては何の関係もない。あの広告はコピーによって私も見たが、私の『竜馬がゆく』の文章を、著作権を無視して完膚なきまで打ち砕いているばかりか、その発行者である京都新聞から、右の破壊にかかわる行為について、その行為をする、あるいはしたという事前・事後の通知を一度も受けていない。理由はそれに尽きる。」
​ 司馬遼太郎は反省文を書いたのではあるが、読めばわかるが、自身に「部落」に対する差別意識・認識があるとは、いいさかも考えていないし、反省しているわけではない。「ちょうりんぼう」の「元意味を知らなかった」ことを反省し、「元意味」を知らずに使用した自分の「甘さ」を反省しているのである。​

​奈良本辰也(1913年12月11日生-2001年3月22日没)は、日本の歴史学者。立命館大学教授、部落問題研究所所長、1966年には部落問題研究所の業績が認められ、代表者として朝日賞を受賞している。その後、1987年に第4回松本治一郎賞を受賞している。​





​司馬さんの「反省文」とは「長吏(ちょうり)」の解説文でした​

「私事からいうが、人間には慢ずるということがよろしくない。」という前置きからはじまる「反省文」は「長吏(ちょうり)」という言葉が「ちょうりんぼう」とつながっていたことに「気づかなかった」ことは、「限りなくはずかしい。」と反省しているが、さすがに司馬さんはそれにはとどまらない。
司馬さんは「長吏」は江戸期になり差別が法制化されることより「嘲罵」の言葉となり、さらに「ぼう」という語尾がついて罵倒語の「ちょうりんぼう」という言葉になったと歴史的成立過程を明快に説明している。

●全文は『司馬遼太郎が考えたこと・12-「〝長吏〟と人間の尊厳について」』新潮文庫)
をお読みください。



​3、あの確認糾弾会に一人で参加できた司馬遼太郎の矜持​

 その昔、私も都合で確認糾弾会に何度か参加したことがある。糾弾される側に座る「差別者」は少数、糾弾する側は多勢であるから、「差別者」の緊張感と圧迫感はもの凄いはずだ。特に、確認糾弾に慣れた解放運動の幹部たちの舌鋒は鋭く、時には怒声を上げ、興奮すると机が叩かれ、その強い振動で灰皿が床に落ちることもある。参加した人たちも同調し怒声を浴びせることもある。
 司馬さんは150人の「解放同盟員」の前に一人で座り、前記の反省文を読み、全員を納得させたのである。なんという説得力と人間力の持ち主であろうか、そして、桁外れた胆力の持ち主であろうか。
 司馬さんのこの人間力の根源に何があるか探ってみた。行きついたのは学徒動員で戦車隊に配属されて体験した日本陸軍の不条理な体験である。以下は司馬さんが語った戦争体験である。
​◯「私が、兵庫県加古川市の北の方の青野ケ原にあった戦車第十九連隊に初年兵として入隊したとき、スパナという工具も知らなかった。(中略)格納庫で作業のまねごとをしていたとき、古年兵が『スパナをもってこい』と命じた。足元にそれがあったのにその名称がわからず、おろおろしていると、古年兵はその現物をとりあげ、私の頭を殴りつけた。頭蓋骨が陥没するのではないかと思うほど痛かったが、なるほどこれがスパナかとばかばかしかった。」(『司馬遼太郎が考えたこと・6―「戦車・この憂鬱な乗り物」』新潮文庫)​

 司馬さんの戦車隊は本土決戦に備えて、栃木県佐野市に駐屯していた。その時、敵が上陸した場合に備えて、その邀撃作戦(ようげきさくせん)などについて説明すべく、大本営から人が来たことがあった。その時、司馬さんはこう質問した。
​◯「東京や横浜には大人口が住んでいるのである。敵が上陸してくれば当然その人たちが動く、ものすごい人数が、大八車に家財道具を積んで北関東や西関東の山に逃げるべく北上してくるにちがいなかった。そういう場合交通整理をどうするのか?」。「大本営からきた人は、しばらく私を睨み据えていたが、やがて昂然と、『轢(ひ)っころしてゆけ』と、いった。」​
(『司馬遼太郎が考えたこと・6―「石鳥居の垢」』新潮文庫)
 このことがよほどしこりのように残ったようで、のちのち繰り返しこのことを語っている。そして、なぜ小説を書くのかと尋ねられると、決まって「二十二歳(昭和二十年八月一五日―日本の敗戦の日―)の私自身への手紙のつもりです。」と答えている。

 復員した司馬さんは職を求めて文字通り焼け野原になった大阪を歩きまわる。そうした中で、『新世界新聞』(いまはない)という新興新聞社に入社し、その後に産経新聞社に入社した。
​◯「まだ三十でしたが、もうわたしとしては新聞記者として車庫入りしていたような感じで、といいますのは社会部から文化部へまわされまして、美術批評を書かされたんでしたが、それがいやで、なんのために新聞記者になったのかというと、火事があったら走っていくためになったんで、もう落魂の思いでした。」(『新聞記者司馬遼太郎』産経新聞社)​
 司馬さんは1948年6月28日に発生した福井地震の取材に派遣され、最大の被害者を出した映画館などの崩壊のもようを伝え、さらに市の建築専門家によれば戦後新築された建物はほとんどが「手抜き工事」をしていることを暴露する記事を書いている。
 
 司馬さんの経歴を見ると、理不尽な戦争に駆り出され、薄い鉄板に囲まれた戦車の中で死ぬことを一度は決意したことのある人間であること、命を失った同世代や無辜の国民への深い同情と、死を強制した無能な軍国主義者に対する憎悪と怒りを持っていた人間であることがわかる。
​​ 一度深く死を考え、死を覚悟したことのある司馬さんにとっては確認糾弾会は恐れるような場所ではなかったようである。恐れていたのは「元意味」を知らずに使用した自分の調査の「甘さ」であり、その原因である「慢心」なのである。それを糺すために確認糾弾会に参加したのである。​​
 歴史作家の矜持ここにありといえよう。





​『坂の上の雲』-秋山兄弟の生誕地を訪ねる​

松山市内にある秋山兄弟の生誕地を訪ねた。
この小説の主人公である秋山好古、真之誕生の地である。庭には日露戦争で騎兵第一旅団を率いて、世界最強といわれたロシアのコサック騎兵を見事に討ち破ることに成功した騎馬にのる好古のブロンズ像がある。
真之は海軍連合艦隊参謀。日露戦争では連合艦隊の参謀として海上作戦を一任され、日本海軍の勝利に多大な貢献をして「戦略戦術の天才」と評された。特に有名なのは日露戦争時に連合艦隊から大本営に送る報告の起草を引き受け、これらの報告文は常に美文揃いで評判となった。殊に日本海海戦時の出撃の際の「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の一文は、海軍で長きに渡って名文と讃えられていた。



​4、私たちは歴史・時代小説を過去の物語として認識しているか​ ​


 「ちょうりんぼう」という「差別語」は徳川将軍家が住む江戸の警備を主な任務として、関東一円に警備や諜報活動をする者を配置したことから、長吏(ちょうり)という呼称が広く使われるようになった。警備や処刑などで権力の下働きを務め、賤業といわれた皮なめしなどに従事していたから、長吏は「ちょうりんぼう」という「侮蔑語・排除語」となり広がった。
 では司馬さんのように「ちょうりんぼう」の「元意味」を「知らず」に使用すれば差別となるのだろうか?もし仮に私が盲人に対し、「めくら」という言葉を「差別語」だとは知らずに使用した場合、差別となるであろうか? 
 「知らない」ということは脳に記憶されていないことである。感情は記憶とともに脳に保存されているものだから差別意識というものは存在していない。ゆえに差別的意図をもった行為は発生し得ないから、差別とはならない。もし被差別者から「被害を受けた」と指摘を受けた場合でも、「知らなかった」ことを説明し、学習すればすむはずである。
 こうした視点の上に立ち、歴史・時代小説と差別語や賤称語について考えてみよう。
◯歴史・時代小説に共通しているのはエンターテインメント性である。人々を楽しませる娯楽小説である。歴史書のように事実のみが羅列されたものではなく、そこには作者の思想に基づく解釈、想像力が加わる。
◯歴史小説は歴史的事実に制約される。主要な登場人物は歴史上に実在した人物で、主要な部分においては歴史的事実を捏造したり、改竄することは許されない。 
◯時代小説は、『鬼平犯科帳』のように架空の人物を登場させるか、実在の人物を使っても史実とはかけ離れた物語を展開する。『水戸黄門漫遊記』のように助さん・格さんの二人のお供を従え、諸国を巡り歩いて悪政を正すという荒唐無稽なものも書ける。 
​ いずれにしても歴史・時代小説などは過去を描くために、差別語や賤称語は作者の無知によるものだけでなく、物語のリアリティ性を高めるために敢えて使用される場合もあるという覚悟は必要だ。これは過去の映画での事例だが、勝新太郎の『座頭市』で悪役・敵役の上田吉二郎が市に向かって「このドメクラ!」(いかにも憎々しく)と罵る。市は白目をむいた瞬間に逆手切りを放つ。観客の溜飲は下がる。これが「この視覚障害者​!」では共感は得られないだろう。​
 私たちは過去という概念を正確に把握しておかなければならない。
 過去という概念の本質は、脳に記憶された情報を時間の流れにそって3つに分けて理解することである。①既に過ぎ去った部分のこと。②現在より以前の時のこと。③あるいは、すでに終わったできごとのこと。である。
 ​過去はすでに終わっているのである。​
 こうした視点で歴史小説や時代小説を認識すると、使われている差別語や賤称語は完全に過去の時代のものであることが理解できるし、「ちょうりんぼう」という言葉が小説にあったとしても、​現代を生きる人間と結びつける必要も、被害者意識で受け止める必然性は全くないのである。​
​ そして、これは常識の範囲で心がけるべきことだが、差別語や賤称語は過去に使用された言葉とはいえ、表現が誠に下品かつ下劣、刺激的であるものが多いため、ストレスの多い現代社会においては、人を揶揄したり、誹謗・中傷したり、人格攻撃をする際に使用されやすく、それがSNSなどで社会に伝播しやすい性格を持っている。ゆえに、なるべく不必要な使用については控えるべきである。​
  




​坂の上の雲ミュージアムに行く-日露戦争賛美?

2007(平成19)年4月に愛媛県松山市の中心部の松山城を頂く城山の南裾に開館した。総工費は約30億円。
同市は司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』を軸とした21世紀のまちづくりに取組んでいるというが、司馬さんは日露戦争を「国家が至上の正義でありロマンティシズムの源泉であった時代」(『坂の上の雲』第三巻・文春文庫)と位置づけ小説を書いているから、その趣旨に合わせて展示すれば日露戦争賛美の博物館になってしまう危険性がある。
実際に見て回ると、徴兵制や租税に苦しむ農民や、戦死した数多くの若者についての展示はほとんどなかった。




​5、歴史・時代小説の差別語・賤称語は差別にはならない​


 刺客に襲われ危機に瀕した竜馬が「ちょうりんぼう」と、土佐弁で罵倒したことは司馬さんの創作であるが、読者のほとんどは物語の流れからみても違和感を感じることはなかったはずだ。 
 『竜馬がゆく』は1962年から1966年まで産経新聞で連載され、1963年からは文春文庫で出版され国民的人気を博している。前記のように問題となった契機は、1983年「京都新聞」に掲載された広告であった。相当の年数(21年)を経ている。
 博学な司馬さんも知らなかった「ちょうりんぼう」の本来的意味を知っている人がどれだけいたであろうか、『竜馬がゆく』は私も高校時代に読んでいるが、「ちょうりんぼう」が「差別語」であるなどとは全く気づかななかった。
 歴史・時代小説の影響を受けて、差別語や賤称語を、現在において実際に使用するかもしれないと想像力を働かす人もいるかもしれないが、歴史を過去の出来事として考えるという常識のある人々は、現代社会においては使用することはない。ましてや「語源」を知っているような専門家や人権活動家にはいないであろう。さらに、部落差別の解決が最終段階にあり、被差別意識の希薄となった時代に、「ちょうりんぼう」という言葉に傷つくという人がどれだけいるかも疑問である。反対に、司馬さんのような国民的作家を確認・糾弾したことをマスメディアが取り上げて報道することで、死語となりつつある言葉を復活させることになるのではないかと危惧する。
 差別語や賤称語は過去においては社会的意味や役割を持った言葉である。今日では、それが人権侵害につながる恐れがある言葉であっても、言葉だけでは差別にはならない。「部落差別解消推進法」に「部落差別」という言葉があるからといって差別は固定化・永久化しないし、図書館に所蔵する部落問題関連書籍に部落の地名が記載されているからといって、それだけでは差別にならないのと同じである。問題なのは人間がどう理解し、行動するかだ。
​​ 差別となるのは特定の個人や地域に対して明確な差別的意図をもって差別語や賤称語を使用し、精神的・肉体的、社会的不利益を与える場合だけである。 ​​
 明確な差別的意図とは以下の通りである。
①特定の地域の住民、その出身者の自由で平等な権利を侵害する目的で使用する場合。
②特定の地域の住民、その出身者の名誉を棄損する目的で使用した場合。
③特定の地域の住民、その出身者が秘密としている個人情報を暴露するために使用した場合。
 当然ながら、この根底には邪な悪意と憎悪が潜在している。





​​『坂の上の雲』は勝利を必然化した歴史小説​​

展示の中に、ボロボロのZ旗と連合艦隊司令長官東郷平八郎の署名のある「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」という書。
展示されている書は複製であるが、日本海海戦に際して、旗艦の戦艦「三笠」上で、Z旗を掲げて全艦隊の士気の高揚を図った名文といわれている。この文は秋山真之参謀が考え、東郷司令長官の了承を得て、全艦に発信したといわれている。Z旗も当時の物ではないが、潮風と風雨にさらされ劣化した布に風情が沁みている。
『坂の上の雲』は日本海海戦の勝利という結果を必然化し、それを人間の最も輝く青春と結合して描いているから、読者には戦争はゲーム性の高い青春ドラマとなる危険性があるのだ。




​​6、憎悪を発動させる確認・糾弾はもはや部落問題解決に必要はない​​

 本来、確認・糾弾とは、部落解放運動団体が部落に対する差別言動が発生した際に、その事実をもとに差別言動発生のメカニズムを科学的に究明し、発生の原因と責任の所在を明らかにすることで再発を防止するためのものであるといわれてきた。
 しかし、確認・糾弾という行動原理の根源にあるのは差別者に対する憎悪感情であるから、必然的に主張や行動は感情的にならざるを得ない。憎悪は脳の紡ぎだす暗い感情である。自分を脅かすものに対する基本的な反応であり、恐怖は逃走反応から生まれ、憎悪は闘争反応から生まれ、積年にわたる部落差別は「部落民」の怒りや憎悪の観念(敵意、欲求不満、嫉み、悲嘆、苦痛、恐怖感など)を蓄積させてきた。確認・糾弾はその情動を一挙に放出することであるから、指導者の理性的な制御能力が問われることはいうまでもない。
 しかし、指導者は目的達成のために憎悪感情を利用する場合がある。ヒトラーは第一次世界大戦の賠償に苦しむドイツ国民の戦勝国への憎悪感情を国民の一部に潜在化していたユダヤ人への偏見や反共主義と結びつけて利用し、第三帝国を打ち建てた。八鹿高校事件の主犯丸尾良昭は「部落民」の差別(一般住民)への憎悪感情を反共主義に結びつけ、暴力的行動をとらせた。歴史的に見ても確認・糾弾が広がったのは、権力や権威が憎悪感情を黙認し、巧に煽る時である。戦前においては「太政官布告」(「穢多解放令」)後であり、戦後は同和対策事業特別措置法が制定された前後である。
 確認・糾弾に対する歴史的な評価は地域改善対策協議会の「基本問題検討部会報告書」(1986年8月)の指摘に尽きる。報告書は「民間運動団体の確認・糾弾という激しい行動形態が国民に同和問題はこわい問題、面倒な問題であるとの意識を植え付け、同和問題に関する国民各層の意見の公表を抑制してしまっている」と、確認・糾弾が同和問題の解決を阻害する要因であり、さらに、「差別行為のうち、侮辱する意図が明らかな場合は別としても、本来的には、何が差別かというのは、一義的かつ明確に判断することは難しいことである。民間運動団体が特定の主観的立場から、恣意的にその判断を行うことは、異なった意見を封ずる手段として利用され、結果として、異なった理論や思想を持つ人々の存在さえも許さないという独善的で閉鎖的な状況を招来しかねないことは、判例の指摘するところでもあり、同和問題の解決にとって著しい阻害要因となる」と明確に否定していることである。
​ もし確認・糾弾という運動行為から私たちが学ぶことがあるとすれば、権威や権力に利用されないために「憎悪感情の原始性を制御する理性を鍛えろ!」ということである。​






​悩める正岡子規の石膏像の隣に​

ミュージアムの2階に行くと、何故か横の椅子を空けて一緒に写真を撮ろうと、石膏像の正岡子規さんが待っていた。恐れ多いとはとは思ったが、横に座って写真を撮らせていただいた。
子規は『坂の上の雲』の主人公の一人。真之の幼馴染として登場し、道は違えど終生の友となる。高等中学(大学予備門)以来肺結核を病んで喀血を繰り返したことから、血に啼くような声に特徴のある「子規」(ホトトギス)を自らの筆名とした。
病気の激痛に苦しみながらも、近代文学における短詩型文学の確立・共通文章語の開拓などの様々な改革を成し遂げ、弟子の高浜虚子と河東碧梧桐に跡を託して若くして世を去った。




​7、司馬遼太郎の歴史小説の限界も認識しておかねばならない​​


​ ここまでは司馬さんを激賞してきたが、私は「シン・司馬ファン」だから司馬さんの歴史的記述に対する批判や間違い、独特の歴史観を指摘する意見があることも紹介しておこう。​

​○歴史作家阿部竜太郎氏は司馬さんが得意のレトリックと膨大な資料を駆使して読者の意識を自在に操っていることを指摘する。​
 「例えば『国盗り物語』の中に、『信長という男は、その生涯、出陣の号令を下したことが一度もなかった。つねにみずから一騎で飛び出し、気づいたものがあとを追うというやりかたであった。』という一文がある。信長の壮快な印象を演出するための嘘と知りつつ嘘を書いた例で、司馬氏は随所にこうした手法を用いて幻術をかけるのである。」(『司馬遼太郎の世界-ある変貌』文芸春秋社)

​○作家・昭和史研究家の半藤一利氏は司馬さん最高傑作のひとつといわれる『坂の上の雲』について、前記の『司馬遼太郎の世界-司馬さんが書かなかったこと』(文芸春秋社)で、重要な部分において事実の誤認があることを指摘している。​
​​​ 「敵艦隊ミユトノ警報二接シ連合艦隊ハ直チニ出動シコレヲ撃沈セントス 本日天気晴朗ナレド波高シ」は連合艦隊の暗号であるが、「本日天気晴朗ナレド波高シ」という後半部分は秋山真之参謀が書き加えた。小説では連合艦隊の意気込みを大本営に知らせた「名文」となっているが、「最近になって探り当てた事実はまったく違うのである」と否定し、実際は、連合艦隊の水雷艇が所有する「連繋水雷」という新兵器が波が高いために「波高シ」で使用できないことを伝えていたというのである。​​​
​​ さらに、連合艦隊司令部ではバルチック艦隊が対馬海峡に来るか津軽海峡に来るかについて、大激論がたたかわされていた。司馬さんの『坂の上の雲』はこの時の情景をこう描出する。「『長官はバルチック艦隊はどの海峡を通ってくると思いですか』と問う島村の顔を不思議そうに見て、やがて口を開き、『対馬海峡よ』と、言い切った。東郷が戦史に不動の位置を占めるにいたるのはこの一言によってかもしれない」と、戦前戦後の戦史および戦記に書かれていることをそのまま書いているが、実際は各戦隊司令部に連合艦隊司令部は「密封命令」を交付し、連合艦隊主力は錨を上げて、津軽海峡に向かう準備をしていたのである。 ​​
 ​後に「軍神」とあがめられる東郷も実は迷いに迷っていたようである。​
 
​​◯『日清戦争の研究』で有名な奈良女子大学の名誉教授の中塚明氏は、司馬さんの歴史観が「明治はよかった」。日清・日露戦争の時代を「明るく希望があったニッポンの時代と見ます」と、「明治栄光論」の立場にあることを指摘し、司馬さんが日本の第2次大戦の破綻の原因を「近代と言っても、1905年(明治28年)以前のことではなく、また1945年(昭和20年)以後ということでもない。その間の40年間のこと、(中略)ただ何かの異変が起こって、遺伝学的な連続性をうしなうことがあるとすれば、『おれがそれだ』と、この異胎はいうのである。」そして、「この異胎の卸元は陸軍参謀本部であったとしかいいようがない」(『この国のかたち』1文芸春秋社)と、日本が侵略戦争を引き起こし、日本国民に甚大な被害をもたらした張本人を陸軍参謀本部にしていることに疑問を呈している。​​
 確かに司馬さんは日本が明治維新以降の絶対主義的天皇制のもとで富国強兵をすすめるために、農民をはじめとする国民を収奪し、戦争に動員したことを深刻にはとらえていない。むしろ日本の「青春時代」ととらえている。さらに、韓国を併合し、同化政策をすすめたことについてはほとんど書かない。むしろ、「そろそろ戦争の原因にふれなければならない。原因は朝鮮にある。といっても、韓国や韓国人に罪があるのではなく、罪があるとすれば、朝鮮半島という地理的存在にある。」(前出)などと日本が侵略した原因を「地政学」から説明していることは驚きである。






​変わりつつある東郷平八郎の評価​

ミュージアムには旗艦三笠の指揮所が立体で造られている。日本海海戦を指揮する連合艦隊司令長官東郷平八郎や海軍幹部の間に入って記念写真が撮れるからすごい。
司馬さんの描いた日本海海戦の東郷像と実像は新たな資料の発掘によって変わりつつある。最も有名なバルチック艦隊の前面を横切りターンをした「東郷ターン」はバルチック艦隊の予測進路を読み誤った結果だという説が有力になっている。
いきあたりばったりのところがあったようだが、司馬さんの描いたように、東郷の科学性と計画性が勝利をもたらしたことは間違いない。バルチック艦隊の弱点を徹底的に調査・研究し、勝利に向けて訓練してきたことは事実。その基礎があってこそ、海戦時の状況の変化に対応できたのであると思う。





 さいごに-現代人の「維新」というイメージは司馬さんによって作られた

 司馬さんは戦後最大の歴史小説家であることは間違いないし、詳細な文献調査と現地調査に基づき組み立てられた物語には必然性があり、明快であるうえにエンターテインメント性が高い。さらに歴史学からみても信憑性が高く、説得力があるから、読む人を引きつけ、社会に強い影響を与える。
​ 「維新」という言葉がある。辞書によれば、「すべて改まり新しくなること。」和訓では「これあらた」と読む。古くは「惟新」とも書いた」とある。​
 戦前までの「維新」に抱く国民のイメージは新撰組と月形半平太であったという。今、多くの国民の持つ「維新」のイメージは司馬さんが描く『竜馬がゆく』をはじめとする「維新」関連小説に登場する坂本龍馬、西郷隆盛、秋山好古、秋山真之などの英雄が青春を賭けて新しい国を造るために跋扈する姿なのではないだろうか。
​​ ひょっとしたらあの「身を切る改革」をスローガンにする「維新」という政党への不可思議な期待は、このイメージと結びついているのかもしれないと思う。勿論、それは司馬さんに責任のないことである。​​
​ 「シン・司馬ファン」としては、戦争犯罪者と差別を心から憎み、それを根源的な動機として書かれた司馬文学を正しく評価することで、数多くの司馬ファンが人権と平和国家日本を守り育てる立場に合流するように努力したいと考えている。​





​司馬遼太郎記念館の中庭にある石碑​

「ふりむけば 又咲いている 花三千 仏三千」とある。
この意味は「山も川も草も木も皆悉く仏に成る」という仏教の「山川草木悉皆成仏」から来ているのであろうが、少し違う。
​仏教では山も川も草も木などの心を持っていない存在で、自らの意思で修行できない存在であっても仏に成れるという意味だが。​
これは少し違う。
​花三千は仏三千と同じ、成らなくても花はすでに仏なのである。​
司馬さんは確認糾弾会に参加して、「解放同盟」の皆さんをどう見つめていたのだろうか?もう少し長く生きて何かに書いて欲しかった。

アイヌを学習して部落問題を考えてみた③​​​​​​ ウポポイに行って考えた―なぜ日本人は人種・民族差別を克服できないか

​​​​​​アイヌを学習して部落問題を考えてみた③​​​​
ウポポイに行って考えた―
なぜ日本人は人種・民族差別を克服できないか
​​




​​ウポポイ(Upopoy)・北海道白老郡白老町にある「民族共生象徴空間」の愛称である。
「ウポポイ」とはアイヌ語で「(おおぜいで)歌うこと」を意味している。森に囲まれたポロト湖という美しい湖畔に、国立アイヌ民族博物館、国立民族共生公園、慰霊施設が配置されている。
ウポポイはアイヌ文化の復興・創造・発展のための拠点となる国立のナショナルセンターという触れ込みだが、民族博物館の展示には「同化政策」の功罪は明確にされていないようだ。
「反省なき民族の象徴空間」、アイヌを「観光資源化する」という批判もあるが、和人たちがこの施設をめぐり、縄文人の自然崇拝の心に触れ、アイヌ文化に圧倒され、アイヌの未来を考えるのにはいい場所だと、思った。​​​



​ はじめに

​ 「なぜ日本人は人種・民族差別を克服できないか?」という問いかけをしながら、三重県松阪市の松浦武四郎記念館から、北海道の知里幸恵記念館、萱野茂民俗資料館、二風谷アイヌ博物館、そして、ウポポイを視察してきた。結論的にいえば、答えは「私たちは何も知らなかった」ということだ。 
 江戸末期、松浦武四郎は民衆にアイヌの人間的価値を正確に知らしめるために、膨大な調査記録を自費出版した。「知らない」ということが忌避や排除意識を生み、それを利用した支配につながるということを知っていたからであろう。 ​

 同じように、知里幸恵さんや知里真志保さんはアイヌの口承伝承を文字化し、明治政府の「同化政策」に抗して、アイヌの文学価値しいては文化価値の高さを広く和人に認めさせることで、アイヌの消滅の危機に立ち向かった。そうしたたたかいは戦後に受け継がれ、年月はかかったが、「アイヌ新法」を実現し、いまわしき「旧土人保護法」を廃止させた。 
 しかし、私たちは冷静に自己省察をしならなければならない。こうした変化の背景には、和人の人権意識の高揚があったわけではないこと、「先住民の権利に関する国際連合宣言」(2007年)に基づく、強い国際世論があったからである。
 外圧である。明治維新も外圧であった。日本国憲法もGHQの占領下で制定された。例えていうなら日本人はいつも自らがゴールを設定せずに、努力せずに、外圧によりトコロテンのように新しい時代に押し出されてきた。だから、崇高な理念は常に頭上に輝いていたが、足裏では少数人種・民族を踏みつけていることに気づいていなかったのである。
 正直に告白しよう。私たちは知らなかった。同じ日本列島に居住する同胞であるアイヌが塗炭の苦しみの中に人間の誇りをかけてたたかい、たたかいを通じて人間発達を鮮やかに遂げていることを知らなかった。それが人種・民族差別を克服できない原因であったのだ。





コタン(村)とチセ(家)を再現

ウポポイにはチセの集落がある。それぞれのチセの中に入ると、ふくろうが神となって部屋を飛び回る様子などが想像出来る楽しい空間となっている。アイヌの民話の世界の舞台である。
アイヌ衣装を身につけた人たちによって、アイヌの風俗、日常生活、アイヌ民話の語りや謡(うた)が紹介されていた。
アイヌの子どもたちは大きないろりを囲んで、祖父母から、フクロウの神が貧しい少年を幸福にする「銀のしずくふるふるまわりに」や、小さな神の子オキクルミが悪魔の子から鮭を助ける「小オキキリムイが自ら歌った謡」などの話しを聞いていたのである。 ​​




​​​1、ウポポイ(Upopoy)​​に行ってみた​​

 北海道白老郡白老町にあるウポポイ「民族共生象徴空間」を訪ねた。「ウポポイ」とはアイヌ語で「(おおぜいで)歌うこと」を意味している。おおぜいがアイヌの民謡をアイヌ語で歌うのは素晴らしいことだが、和人で歌える人は少ないはずだ。ウポポイができたお蔭で和人が一つや二つアイヌ民謡が歌えるようになれば誠に嬉しいことだと思った。
 このウポポイは1997(平成9)年に「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(アイヌ文化振興法)」(2019(令和元)年廃止)が施行され、アイヌ文化の伝承活動の裾野拡大に向けた取り組みを展開しようとしたが、アイヌ文化の伝承者が少なくなり、アイヌ語や伝統工芸など存立の危機に直面していること、アイヌの歴史や文化について日本国民の幅広い理解が進んでいないという基本的な課題が鮮明となった。 
 こうした課題を解決するために2009(平成21)年の「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」報告において「民族共生の象徴となる空間」の整備が提言され、アイヌ文化を復興・創造・発展させる拠点であり、先住民族の尊厳を尊重した多様な文化を持つ社会を築いていくため、複合的な意義や目的を有するための象徴「空間」として建設され、2020(令和2)年7月に開業された。
 敷地内には国立アイヌ民族博物館、国立民族共生公園、慰霊施設などが建設されており、アイヌの歴史・文化・生活が訪れた人に総合的に理解できるように構成されているとあるが、果たして、アイヌ文化を復興・創造・発展させるという目的が達成できる施設となっているかどうかについては疑問を持たざるを得ない。





​広場で演じられるアイヌの伝統的な舞踊​

言葉・信仰・踊りは民族精神の核心を構成している。この三つが存続すれば民族は滅びないといわれている。
ガイドには「ウポポイでは、アイヌの伝統及びアイヌ文化に関する理解促進を図るため、令和3年度より伝承している団体を招請し、園内において各地域で伝承されている舞踊等を披露・発信しております。」とある。私たちが訪れた時に上演されていたのは祭祀的性格の強い「剣の舞」であった。 
アイヌ古式舞踊は祭祀の祝宴やさまざまな行事に際して踊られているもので、熊送り・梟祭り・菱の実(ベカンベ)祭り・柳葉魚(シシャモ)祭りなどのアイヌの主要な祭りに踊られているという。​​




​​​2、まず人種・民族について知っておこう​​​

 ​人種と民族を区別して表現するのは難しい。 ​
日本では、外見や生活環境の違いを理由に排除するときに、「あいつとは人種が違う」と言う。この言葉はバイアス(偏見)を伴う言葉である。この場合は「人種」という言葉は「民族」と同じものとして使用されているが違う。そこで、まず人種、民族の概念を把握しておこう。
人種とは「人類を骨格、皮ふの色、毛髪、血液型などの特徴によって生物学的に分類したものであり、一番わかりやすいのが皮膚の色である。一般的には皮膚の色によって、コーカソイド(白色人種)・モンゴロイド(黄色人種)・ネグロイド(黒色人種)の三大人種に分類される。さらに、オーストラロイドを加えた四大人種、カポイドを加えた五大人種とする分類の仕方もある。日本人は多くがモンゴロイドである。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
 民族または民族集団とは「一定の文化的特徴を基準として他と区別される集団をいう。土地、血縁関係、言語の共有(母語)や、宗教、伝承、社会組織などがその基準となるが、普遍的な客観的基準を設けても概念内容と一致しない場合が多いことから、むしろある民族概念への帰属意識という主観的基準が客観的基準であるとされることもある。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
 人種は生物学的特徴が主な決定要因となり、民族は言語や文化の共有が主な決定的要因となる。そして、多くの国家ではこれらの要因は重なっているから、人種と民族は往々にして同じ概念となるが、アイヌは人種的には和人と同じモンゴロイドであり、言語や文化が別だから別の民族となるのである。
 ではアイヌは本当に和人とは別の民族であろうか?





​​​民族博物館展示物―イヨマンテの飾られた熊

熊にも言い分もあろうと思うが、狩猟する人間の動物への深い愛情と尊敬が感じられる儀式である。​
アイヌの信仰では、熊はカムイモシリ(神の国)からクマ神(熊のカムイ)は熊の姿でアイヌモシリ(人の国)へやって来るのだ。
カムイというのは「魂」や「心」というもので、肉体が滅んでも永遠に存続するものであるという認識である。仏教における「山川草木悉皆浄土」における万物には「仏性」があるという思想と共通している。
熊の体は熊の神の宿るものだが、人間に与えることが出来るのである。人間は神から与えられた肉体をいただく代わりに神々が作ることができないイナウ(木幣)や酒を供えて感謝するのである。
イヨマンテでは酒や供物を捧げクマ神をもてなし、多くの土産を持たせ、クマ神の霊を神の国へ送り返すという儀式である。​​




​3、アイヌと和人のルーツは同じ縄文人である​​


 まず「アイヌ新法」が明記している先住民(せんじゅうみん)とは何か?について、私たちは理解しておかねばならない。先住民とは、ある土地に元来住みついている人間集団のことである。とくに、外来の侵略者や植民者から区別して呼ばれ、原住民ともいわれることもある。
​​ 「アイヌは先住民か?」という疑問に対する答えはすでに出ている。自然人類学者の埴原和郎氏は「いずれにしても、アイヌと和人の関係にしぼっていえば、両者は同じ縄文時代人を祖先としてそれぞれ多少違う方向に小進化したのにすぎないのであって、いわば両者が兄弟関係にあることはほぼ確実と思われます。したがってアイヌは白人系でもオ―ストラリア原住民系でもなくて、古モンゴロイドを先祖としている人たちであり、その点からいえば、われわれ和人とまったく同じルーツを持っている人たちであるといえます。」と、アイヌの祖先は日本人と同じ縄文人であることを明言している。​​
​​​ さらに、同書において哲学者の梅原猛氏は「埴原説はもともと日本列島には縄文人がいて、そこへ弥生の人たちがきて、混血して和人ができた。そして和人もアイヌも縄文人を祖先としながら、多少小進化の方向と速度が違ったために、和人とアイヌという違いができた。そしてアイヌの方が、和人よりも縄文的特徴をより多く保存しているということですね。じつは古事記、日本書紀にそういうことを思わせる話しがいっぱいでてきます。」と日本の文化の基層の中にアイヌ文化が存在していることを指摘している。(『アイヌは原日本人か』梅原猛・埴原和郎・小学館ライブラリー)​​​
​ 和人とは縄文人と弥生人との混血であり、アイヌはもともと日本列島に住んでいた縄文人が東北・北海道へ移動することで気候や食料などの生活環境の変化の中で小進化を遂げたというのである。この説は考古学の調査・研究方法が科学的に発展する中、骨・歯・遺伝子のデータによりほぼ完全に裏付けられている。​
 「アイヌは先住民ではない」という学説もある。その理由は「800年前に突然アイヌ文化が出現し、いくら発掘調査をしてもその前にはアイヌが北海道で先住していた痕跡が全く見つからない」というものである。これはいいがかりのようなものだ。800年前に和人は北海道に定住していなかった。しかし、アイヌは定住し、集落とともに生活・文化・交易圏を形成していたのであるから先住民であることは間違いない。
 縄文人に視点をおいて考えれば、アイヌは先住民であり、和人とは兄弟なのである。

◯小進化とは、環境諸条件により、生物体制の根本的変更を伴わず、個々の種の違いを生じる程度の進化である。肌の色、瞳の色、鼻の形、体毛などの身体的特徴に現れる。アイヌが毛深いといわれるのは小進化の結果である。​





​​​小進化―旧モンゴロイドと新モンゴロイドの混血​

モンゴロイドは形質的特徴を中心とする遺伝的特性から、「新」・「旧」とわけられる。「新」・「旧」というのは「寒冷地適応」を経て「小進化」しているかどうかという区分だ。
新モンゴロイドはシベリアという極寒な気候・環境に適応した結果として形成された人種であるとの考えが有力である。主に現在のシベリア・モンゴル・中国・朝鮮半島・カザフスタン・キルギス・アラスカ・カナダ・グリーンランドに多く居住するとされる。
新モンゴロイドは日本に紀元前8世紀から紀元前3世紀にかけての縄文時代終期から、弥生時代以降に渡来人として断続的に渡来した。弥生人や古墳人と日本列島在来の北方系旧モンゴロイド(縄文人・アイノイド)と混血して現在の大和民族(倭人・和人)が形成されたのである。​​



​​4、アイヌはアメリカ先住民に較べるとひどい境遇におかれている​​


 ​アメリカの先住民の状態を見てみよう。​
 コロンブスのアメリカ大陸「発見」(1492年10月12日)以降、イギリス、フランス、スペイン、オランダが覇権を争い、イギリスが覇権を確立し、そのイギリスから独立戦争(1775年4月19日から1783年9月3日)を経て誕生したアメリカ合衆国は武力による際限のない領土支配を進めた。その犠牲となったのはアメリカの先住民(主にインディアン)であった。
 アメリカ合衆国はフランス革命よりも早く平等な市民社会の建設を理想にし、独立宣言(1776年7月4日)では「すべての人間は神により、平等につくられ、一定の譲り渡すことのない権利が与えられており、その権利の中には、生命、自由、幸福の追求が含まれる」と明記している。この自由、平等、幸福の追求は先住民への容赦のない残虐な征服行為を伴うものであった。
 白人はインディアンを武力で次第に追い詰め、土地を奪い、その一部を民族隔離のために「保留地」として与えた。さらに、取り上げた土地の代替地として、「保留地」を造り、インディアンを集団移転させた。そうした土地は、ほとんど農業生産や牧畜に適さない荒地であった。
 この民族隔離の意図で与えられた「保留地」ではあるが、アメリカ合衆国の全土の2.8%に当たり、その中で最も面積が広い「保留地」はナボァホ族の1728万エーカーで日本の四国の約4倍もある。この「保留地」の所有権は連邦にあるが、居住と使用の独占的権利はインディアンが保持している。
​ この「保留地」が民族的諸権利を維持する基盤となっている。「保留地」では部族の伝統や儀式が温存され、継続されてきた。それがインディアン・アイデンティティの重要な核となっている。この「保留地」とアメリカ中に散らばっている先住民が結合して、合衆国の公民権運動(1950年代から1960年代)と連動して権利回復運動が展開されてきたといわれている。​
 白人の侵略の産物であるとはいえ、インディアンには民族の共生地としての「保留地」が保証され、民族としてのインディアン・アイデンティティを維持する基盤が存在しているのだ。アメリカ連邦政府は公認部族を対象にして住居、医療や教育のサービスを行っている。驚くべきことに、前記のナボァホ族をはじめとする「保留地」には37校の部族大学があり、教育を受ける者は学費が免除され、そこでは民族の歴史、伝統・文化が自由に学べるようになっているのである。
 インディアンの最後の砦は「保留地」となっているのである。

​◯アイヌの「給与地」について・日本の場合は、明治政府がアイヌの居住地をすべて官有地とし、「旧土人保護法」に基づき、一戸につき1万5千坪を「給与地」として「下げ渡し」をした。「給与地」は個人所有であり、「保留地」とは性格が異なるものであった。さらに、狩猟・採集を生業とするアイヌは農業は不得手であったことや、与えられた「給与地」は農地に適さない土地が多く、経済的な困窮により、和人に安く売り払ったため、土地所有者は極めて少数となった。​





​​​勇敢なインディアン―シッティング・ブル​

誇り高い顔とこの鋭い目をしたインディアンの名はシッティング・ブル(Sitting Bull)という。スー族の偉大な戦士として歴史に残っている。
スー族は白人の侵略に断固として立ち向かい、合衆国から絶滅対象部族となったが、先頭に立って勇敢に戦うシッティング・ブルの姿は部族員だけでなく白人たちからも一目置かれたという。
後に、シッティング・ブルは白人に「インディアンの戦士」についてこう語っている。
「我々にとっての戦士とは、お前さんたちが考えるような、ただ戦う者ではない。本来誰にも他人の命をとる権利はないのだから、戦士とは、我々のためにあり、他者のために犠牲となる者だ。その使命は、歳取った者やか弱き者、自分を守れない人々や将来ある子供たちに注意を払い、守りぬくことにあるのだ。」
※『アメリカ先住民ー民族の再生に向けて』の表紙)​​






​​アメリカ先住民の人口は増えている

アメリカ合衆国の人口統計によれば、先住民人口は増加している。
アメリカ合衆国の人口統計は、人種項目を自分で選択するシステムであるが、この選択は生物学的根拠によるものではなく、自らが選択するシステムである。
1970年代から人口が増加している理由としては、アメリカ先住民の権利回復運動が背景にあるものと考えられる。
アイヌの権利回復運動が進めばアイヌの人口は増加するかもしれないことを和人は素直に受け入れることができるだろうか?​​




​​5、長い同化政策はアイヌの民族としての存続を困難にした​​


 同じ先住民としてのアイヌはどうか?
 2008年に、衆参両院において「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が採択され、「アイヌの人々を日本列島北部周辺、とりわけ北海道に定住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民と認めること」として、日本国民の中に少数民族が存在することをやっと認めた。この決議に基づき「アイヌ新法」は生まれ、それを基に国立施設としてウポポイが建設されたのである。
 ウポポイは知里幸恵さん、萱野茂さんらがアイヌの言語や文化の消滅に危機感を持ち、身命を賭してたたかった成果のひとつとして、アイヌ文化の保存と継承、日本国民への教育啓発活動を展開する拠点として建設されたことには大きな歴史的意義がある。しかし、民族史や文化が「博物館」に「資料」として展示されたり、カルチャーセンターでアイヌ語の講習会が開催されるようになったというだけで、「アイヌは民族として存続していけるだろうか?」という疑問が残る。
 実際に、これまでに全国的なアイヌ民族の調査が行われていないこともあって、正確な人口は把握されていないが、「平成29年北海道アイヌ生活実態調査報告書」によれば、北海道にはアイヌは13,118人(同調査・1873《明治6》年16,272人)しか住んでいないし、この他には東京都の調査(平成元年)で都内には2,700人が居住していると推定されているが、合わせても15,818人であり150年前よりも人口は減少しているのだ。
 日本政府が歴史的に「同化政策」をとり、アイヌを民族として承認し、存続するための諸権利を一切与えなかったため、職業を求めコタンを離れて全国に分散せざるをえなかった。厳しいアイヌに対する和人の差別的偏見が蔓延するなか、戸籍では「平民」であったため、自ら進んで「同化」したアイヌも多数存在したといわれている。その結果、アイヌは減少したのである。
 現在のアイヌをとりまく状況をおおまかに特徴づけると、以下の通りとなる。
①日本列島はアイヌと和人共通の母国であり、アイヌと和人は縄文人を同じ先祖とする日本国民であり、文化や信仰の基層においても共通性が高いこともあって、民族融合は容易である。
②狩猟採集民族であった頃のように河川で鮭を自由に捕獲したり、動植物を狩猟採集する権利を奪われたために、少数民族としての生活、宗教・伝統的儀式を維持する条件が失われている。
③明治政府の「同化政策」による植民地主義的な差別・偏見が解消されるにつれて、融合は促進され、アイヌ・アイデンティティは希薄になっている。
④アイヌにはアメリカインディアンのように「保留地」がないために、アイヌ・アイデンティティを維持していくための基盤がない。
 以上のようにアイヌ・アイデンティティを存続させることは厳しい状況にある。アメリカのインディアン政策を学び、日本政府が大胆なアイヌ政策を実施すれば存続させることも可能であろうが、課題は多い。 






​​​民族博物館展示物―蝦夷錦(えぞ錦)​

蝦夷錦は中国本土でつくられていた官服や錦である。それが現在のハバロフスクあたりに居住していたサンタン人という少数民族に伝えられ、樺太アイヌが和人から得た鉄器を渡して手にいれ、それを和人に渡して鉄器その他のものを手に入れていた。蝦夷アイヌの交易世界がそれほど広大であったということである。
※白い点は模様ではありません。ガラスケースに反射する光です。​​



​6、アイヌの人権を守るということについて考えてみた​


 ​アイヌの人権を守るとはどういうこと?​
 「先住民の権利に関する国際連合宣言」(2007年)は前文で「先住民が他のすべての民族と平等であること」や「すべての民族が、人類の共同遺産を成す文明および文化の多様性ならびに豊かさに貢献すること」と明記し、先住民族の集団権利と権限について、自決権、土地や自然資源に関する権利、教育の権利を規定している。一言で言えば、それは民族存続のための権利を保障することであろう。 
 では日本政府はどのような政策を実施することが必要であろうか? アメリカインディアンの事例に沿えば次のようになるだろう。
①北海道を中心にアイヌに完全な居住と使用の独占的権利をもつ「保留地」(コタン)を提供する。
②「保留地」にはアイヌがルーツであると自認する国民の居住を認める。
③「保留地」に学校や文化施設を創り、アイヌ語や文化を学ぶための教育を受ける権利を認める。
④北海道を中心にアイヌに漁労・狩猟・採取等の権利を認める。
などである。
 こうした状況の中で、上記のような政策を実行するとなれば、次のようなトラブルが起こるだろう。
①日本政府は「保留地」を確保し、アイヌに与えることは可能か? また、すでに既得権をもつ和人はそれを支持するだろうか?
②仮に「保留地」が提供されるとして、コタン外に転出したアイヌおよび子孫の認定をどうすすめるのか? 認定が民族を分離することにならないか?
③「保留地」に学校や文化施設を創り、日本国民とは別枠教育が行うことは正しいか?
​ など、たちまち困難に直面することになる。 ​
 私たちは同じ日本人としてアイヌが民族意識を失い続けることに危機感を感じるが、歴史的に言えば、元は同じ日本列島に住む同じ縄文人を先祖にもつ日本人であるから、融合していくことは当然の流れと考えるべきである。一方で、アイヌを民族として永久に存続させるために、「保留地」をはじめ大胆な「存続政策」をとる必要性があることも理解できるのだ。
 ​アイヌの人権を守る議論はこれからなのだ。​
 アイヌの人権を守るという視点で見ればウポポイは観光施設にすぎない。むしろ小さいとはいえアイヌの矜持がひしひしと伝わるのは知里幸恵さん、萱野茂さんらの資料館であろう。両館の展示内容には民族存続への強い願いがあるのだ。かといってウポポイを否定しているわけではない。「日本は単一民族の国」という非科学的な教義に固執していた日本政府が先住民の存在を認め、国立施設を建設したというのは大きな進歩ととらえるべきだし、まともなアイヌ教育を受けていない私たち和人にとっても、楽しくアイヌの歴史や文化を学べる国立施設の存在することは大きな意味があるのだ。






​​広場で演奏されるムックリの響きは自然の声

竹製の薄い板(弁)を唇に挟み、横の紐を引っ張る事で弁を震動させることで音を出す。これを口腔に共鳴させる。
小さいはずの楽器だが、音は周りの空間に振動し、大きく広がり聴く者を包み込み心をとらえる。演奏者は前にいるが、音はまわりの森から聞こえてくるようだ。
民族は言葉と物語、音楽、美しい衣装を持ち、それは時代を経ても消耗することのない魂であるから、消滅することはない。だから、これらの文化がある限り、アイヌは存続していくと思う。​​



​7、部落差別とアイヌ差別の根源は同じではない​

 
 この3回の連載で、アイヌ差別と部落差別が基本的性格の違う問題であることがお分かりいただけましたか。
 アイヌ差別は主に明治政府が行った生活・文化、宗教・慣習などを無視した民族の消滅を意図した「同化政策」からはじまるといっていい。戦後もその政策は基本的に引き継がれてきた。「アイヌ新法」の成立により一区切りはしたが、アイヌの人権回復は端緒に着いたばかりである。 
 一方、部落差別は民族差別ではなく、日本民族内部の問題であり、「部落」とは、近・現代社会においても封建社会の身分を理由に差別を受けていた居住区のこと、「部落民」とはその居住区に住む人およびその出身者のことである。現代における部落差別とは封建社会の残りカスである身分的偏見を克服できない一部の人々によって引き起こされる人権問題である。部落差別問題はほぼ最終段階に到達し、むしろ、特別な施策や法、特別な運動により解決すべき時代は終わっているのだ。 
 しかし、政府や自治体、マスメディアは差別は同じだとする。それは主に国民間での発言、結婚、社会交流上で現れる差別のみを差別とし、その根源にあるのは国民の「遅れた差別的心理」にあると一括りにしている。こうした認識に基づく人権教育・啓発、報道はアイヌ・黒人差別なども同じ「差別的心理」から発現するかのような誤解を国民の間に広げてきた。その典型がNHK・Eテレの「バリバラ」にみられる部落問題特集などである。
 これまで日本政府は個別の人権問題の本質から表出する差別を恣意的に比較し、その差別にランク付けを行い、重点化した。最重点とされたものが解決を最優先された。過去のある時期においては「部落差別ほど重大な社会問題はない!」と強調されたため、大抵の国民は右に倣えをし、従った。その結果、LGBTの人たちを「異常」と考える多くの日本国民は、それが重大な人権問題であることを認識することがほとんどなく、部落差別のみが日本における重大な社会問題となり、その解決が最優先され、女性の権利、LGBTなどの問題は後回しにされてきたのである。 
 現在では外圧とともに、国民の人権認識が高まる中、政府や自治体、マスメディアが後回ししていたすべての人権問題が顕在化し、その解決は緊急の課題となっている。しかし、日本の支配層の中には封建的思想の残滓に依拠する勢力が厳然として存在し、頑に抵抗を続けている。その背景には日本の遅れた社会構造が根本的に破壊されるという危機感が存在しているからである。「部落差別」には理解を示すが、その他の人権問題については政権選択の判断基準となるまで深刻化しなければ解決しがたい状況になっているようである。
 アイヌの民族としての存続は可能か?という答えもまだ出ていないのである。



​​8、差別を「包括」することには最大の注意を払わなければならない
​​
  国連は「包括的差別禁止法」の制定を各国に呼びかけている。これは少数民族やLGBTQなどの「マイノリティ(少数者)」に対する差別を「包括的」に禁止する法律を制定せよというものである。
 「包括的差別禁止法」の趣旨は人種差別や性差別や障がい者差別のすべて、職場、地域、学校、家庭、社会での差別のすべてを包括して禁止するというものである。これは差別を「一網打尽」するようで、誠に便利なもののように見えるが、日本政府や自治体の人権認識に置き換えると、国家権力や企業、マスメディアの人権侵害が曖昧とされ、女性、LGBT、アイヌの人権を守ることは国民の「遅れた差別意識」を変えることであると換骨奪胎され、「包括的禁止」として、SNSでの言論・表現の自由に干渉・介入し、罰則が与えられかねないのである。実際に、「部落差別解消推進法」の制定以後、ネット干渉と削除は広がっているのである。
 日本テレビの番組「スッキリ」で、「ア・イヌ!」(あ犬!)と、アイヌを侮蔑する発言したタレントと当局が「アイヌの方々を傷つけた」と謝罪したが、アイヌへの差別の根源である民族的権利は見向きもされていない。私たちはアイヌの存続のために、「アイヌの『保留地』を確保し、自治権を認めよ」「漁労・狩猟・採取等の権利を認めよ」という要求を掲げられるだろうか? 女性、LGBTなどの権利を保障する法律の制定するために共に要求してたたかえるであろうか?
​ 差別は言葉だけの問題ではないし、心だけの問題でもない。真の「包括的差別禁止法」とは社会構造と社会意識の変革を伴う重大問題であるはずだ。当然ながら反対意見は出る。人権問題の解答集である日本国憲法を持っていても、練習問題を怠ってきた日本人にとっては、「包括的差別禁止法」は難解な人権社会へ入る入学試験のようなものなのだ。無知と誤解から「差別的発言」が多発するかもしれないが、それらの意見を説得し、合意する過程が国民の人権認識の発達となるから相当な覚悟をもって取り組まなければならない。そのために「パリ原則」に基づく国内人権委員会が必要だ。​
 部落差別に関して言えば、部落差別の解決は最終段階にあり、「包括的差別禁止法」の対象となるような状況にはない。にもかかわらず、なぜか「解放同盟」が中心となり、「包括的差別禁止法案」をまとめようとしているのか?という疑問を持つ。
 誠にいいにくいことを言わせていただければ、数々の暴力・利権あさりで国民的批判を集め、同和特別法が終結して20年以上が経過しているにもかかわらず、現在もなお依然として多くの自治体で不必要な同和対策を継続させ、運動補助金まで支出させている「解放同盟」が前面に立つ立法運動が国民的支持を得られるなどとは到底考えられない。さらに、マスメディアが「解放同盟」に対する国民感情を知りながら、後押しするような報道を続けることで国民をシラケさせているように思える。
 日本の人権状況をふまえた「包括的差別禁止法」を実現しようとするならば、法律にふさわしい人権団体にリーダーシップをとっていただくことが重要。その人権団体の最低の条件は、政府や自治体から完全に独立し、政治的にも独立し、日本国民の人権を守るための理論および法的知識を備えた団体であろう。
 ​ウポポイに行って人種・民族のことだけでなく、人権のことを学ぶ楽しさを知った。​



​​アイヌを学んで豊かになろうぜ-ポロト湖に映る青い空と雲

私たちはアイヌの歴史と文化を訪ね歩いた。目的は民族問題を学ぶためであったが、たどり着いたのは民族問題ではなく、日本民族を学ぶ旅であった。
日本国民の中の先住民が命をかけて守り抜いた言葉や民話、宗教・儀礼、生活が日本人の心の基層であることと、日本国民が共有すべきすごい財産であることを学んだのである。
アイヌを学べば本当の日本人が見える。



以下の記事もお読みください。

 ●参考文献
『日本人とは何か―天城シンポジウム民族の起源を求めて』(梅原猛、上山春平、中根千秋・小学館)
『日本人の誕生―人類はるかなる旅』(吉川弘文館)
『骨から見た日本人―古病理学が語る歴史』(鈴木隆雄・講談社選書メチェ)
『アイヌは原日本人か』(梅原猛・埴原和郎・小学館ライブラリー)
『日本人の起源』(埴原和郎編・朝日選書)
『アイヌの歴史―海と宝のノマド』(瀬川拓郎・講談社メチエ)
『アメリカ先住民―民族再生に向けて』(阿部珠理・角川書店)
『アイヌの碑』(萱野 茂・朝日新聞社)
『アイヌ神謡集』(知里幸恵・岩波文庫)
その他、各記念館資料他。


​​アイヌを学習して部落問題を考えてみた②​ 知里幸恵・萱野茂さんから学ぶ―民族と言葉の深い関係​

​アイヌを学習して部落問題を考えてみた②​
​知里幸恵・萱野茂さんから学ぶ―民族と言葉の深い関係​






とても小さな「知里幸恵 銀のしずく記念館」​
            (登別本町2丁目)

登別温泉の近くの静かな村はずれの森に、『アイヌ神謡集』の著者である知里幸恵の小さい記念館はある。
この記念館は募金活動で建設された。2002年(平成14年)に作家の池澤夏樹が代表となり、記念館の建設募金委員会が発足し、募金運動が行われた結果、2010年(平成22年)9月に開館した。
肌色の壁に小さな入口、中に入ると知里幸恵のアイヌ文化復興にかけた短い生涯と功績が静かな空気の中で伝わるように飾りけのない展示がなされていた。
◯運営は特定非営利活動法人の知里森舎(ちりしんしゃ)。





 ​はじめに​

 松浦武四郎がアイヌに送ったエールはアイヌの人々に受けとめられ、開花していく。その代表的な二人の人物の資料館を訪ねた。 
​​​ その一人は知里幸恵(ちりゆきえ)である。知里さんは「北海道旧土人保護法」(「旧土人保護法」)が制定され、日本民族への同化が進められた民族否定時代に、伝統的な生活や文化の価値を日本国民(アイヌも含む)に再認識させるために、金田一京助の援助をうけながら病弱な体にムチ打ち『アイヌ神謡集』を出版し、19歳の若さで夭逝した。​​​
​ もう一人は萱野茂(かやのしげる)である。萱野さんは差別と貧困、戦争を経て、日本国憲法のもとでアイヌの権利を獲得するために「旧土人保護法」の廃止を要求し、「アイヌ新法」の制定に尽力した人である。​
 この二人の人生を繋ぐ精神は「アイヌ語」であった。
 言葉が滅びると民族は滅びる。民族の文化、共同体、家族の歴史は言葉に記憶として残されているから、アイヌ民族消滅政策という暴政に抗する力はアイヌ語を守り、再生と復権を獲得することであった。そのターニングポイントにカムイ(神)の使いかのように二人は現れた。
 私たちはこの二人の故郷を訪ね、現地の景色と空気の中でアイヌが自らの言葉を再生し、生活と文化を復権しようとする心の原点に触れ、人種・民族という深遠な真理に迫ってみたいと考えた。理不尽にも「被差別者」の側に置かれて刻み込まれた生活・文化、歴史の中の傷跡を見つめ、その痛みを理解し、希望を共にしようと考え、二人の資料館を訪ねたのである。
 
​●幸恵さんについては訪問した『銀のしずく知里幸恵記念館』で展示されている紹介文や資料をもとに紹介させていただく。​






知里幸恵
1903(明治36)年6月8日生まれ、1922(大正11)年9月18日、心臓病で19歳の若さでこの世を去った。​

彼女は生涯で一冊の本を遺した。それが『アイヌ神謡集』である。
文字を持たなかったアイヌの言葉を一旦ローマ字で記述し、それを日本語に転換するという困難な作業を通じて、文字による初めての物語集というだけてなく、日本国民共有財産となる物語集を完成させたのである。
2022年は幸恵さんの没後100年であった。




​​◯銀の滴(しずく)降る降るまわりに―知里幸恵の決意​​

​​1、アイヌ同化政策と知里幸恵の家族 ​

 明治政府は、「アイヌ人保護」を大義に掲げ、1899(明治32)年に「旧土人保護法」を制定した。この法律はアイヌの人々に1万5000坪(5町歩)以内の土地を無償で給与する一方で、アイヌが古来より自由に使用していた北海道の大地と生活の糧としていた漁業権・狩猟権を禁止し、アイヌに農業へ従事することを押し付けたのである。
 アイヌの人々にとって「明治政府」に土地を没収された上に、外からやって来た「開拓民」(和人)に安価で払い下げられていく状況を見つめること、さらに、「旧土人保護法」に基づき学校が造られ、日本語を学ぶためにアイヌ語の使用が禁止されることで、アイヌの人々は精神的に絶望に追い込まれていった。明治政府の政策はアイヌを日本人に同化させること、すなわちアイヌ民族の消滅を進めたことは間違いないようだ。 
 幸恵さんは登別で知里高吉と金成ナミとの間に生まれた。登別の由来はアイヌ語の「ヌプㇽ・ペッ」(nupur-pet・色の濃い・川)に由来している。これは石灰濃度の高い温泉水が川に流れ込んで川の色が白く濁っていることによるものである。
 高吉さんは牧場を持ち、馬の飼育や種付けを行い、妻のナミさんは畑仕事などを行い、家計を助けていた。そうした家族の状況を幸恵さんは、「私の生ひたち、そう申しましても、別に世の人と変わったことでもありませんでした。温かい父母のふところで育まれ、五つ六つの頃は、年老ひた祖母とたった二人で山間の畑にすみ、七つの時、旭川の伯母の所.....」と幼い頃の穏やかな家族との生活を振り返っている。
 幸恵さんは「旧土人保護法」が制定されて4年後に生まれ、アイヌの生活・文化や言語が消滅の危機を迎えている時期に成長したのである。
 




​​登別温泉-アイヌは北海道の観光資源であった​​

登別にも地獄谷がある。「地獄谷」という場所は全国に多数ある。その由来は、白く立ち昇る硫黄の混じる水蒸気と湧き出る煮えたぎるお湯の様子が「鬼の棲む地獄」のように見えるからだといわれている。
地獄谷には当然ながら温泉がある。それが登別温泉だ。
1845(弘化2)年には「北海道」の名付け親である松浦武四郎が訪れており、「蝦夷日誌」の中で大自然に囲まれた秘境ともいえる登別に効能の高い温泉がある事を紹介している。
アイヌが温泉を利用していたらしいが、本格的には明治時代に温泉宿が設けられてからは保養地・観光地となった。
登別温泉には1958(昭和33)年に開園された「クマ牧場」がある。このクマ牧場の横で、観光客のためにアイヌの人たちがアイヌ風の家を建てて、熊送りのときの歌や踊りを観光客に見せていた。
アイヌは北海道の観光資源の一つであった。



​2、カムイユーカラの伝承者―金成(かんなり)マツ​​


 幸恵さんは尋常小学校入学の年から、旭川に住む伯母の金成マツのもとで暮らすことになった。 

 マツさんは1875(明治8)年に登別で生まれ、母はアイヌの口承文芸のカムイユ―カラ(神の謡・カムイユカルともいう)の名手と称された金成モナシノウクである。文字を持たなかったアイヌにとって、その価値観・道徳観・伝統文化等を子孫に継承していく上で重要なものであり、マツさんはそれを受け継いでいたのである。
 マツさんは1892(明治25)年から聖公会が函館に設けた学校に学び、7年間の在学中に日本語の読み書き・算術・体操などと共に、ローマ字によるアイヌ語表記と聖書を学んだ。そして、1898(明治31)年から平取や旭川でキリスト教伝道師として活動していた。
​ 伝道について後に「一日も早くアイヌを啓蒙し、もっと立派な生活に導かねばならないと思います。それにはやはり宗教の力と教育の力による他無いと思います」と、「文明」から遅れたアイヌの生活文化を改善することを使命と考えていたようである。「文明」の象徴としてのキリスト教、遅れたアイヌ文化という葛藤の中に生きていたのである。その葛藤に光を与えたのは金田一京助であった。​
 マツさんは1909(明治42)年に旭川に転勤し、ナミ(マツの妹)の長女知里幸恵(当時6歳)を養女として引き取るとともに、母のモナシノウクも一緒に暮らすことになった。
 幸恵さんはカムイユ―カラを祖母と伯母から聞きながら育ったのである。

​3、旭川の知里幸恵とアイヌへの差別​

 幸恵さんは最初は和人の子どもたちも通う小学校に入学したが、後にアイヌ児童ばかりを対象に開校された小学校に移籍させられた。この学校は俗に「アイヌ学校」と呼ばれ、教育内容は同化政策のもとで行われた同化教育であった。
 ​紹介文に「アイヌの児童・生徒は、自分の属する民族のことばも文化も排除されてしまいました。アイヌとしての誇りを持たされることはありませんでした」(知里幸恵の日記)とある。​
 幸恵さんは旭川で実業学校(旭川区立女子職業学校)にまで進学している。アイヌ語も日本語も堪能で、アイヌの子女で初めて北海道庁立の女学校を受験するが不合格になった。「優秀なのになぜ」「クリスチャンだから不合格となったのでは」という噂が町中に飛び交ったという。 
 和人(大和民族もしくは日本国民を意味する)のアイヌ差別の口実はアイヌの身体的特徴である「体毛の濃さ」や「彫りの深さ」、異言語を使用し、日本語の使用が不得手であったことや農耕に馴染まない生活態度などであった。身体的特徴や言葉、文化の相違を理由に先住民を差別し、支配するのは、世界的に見られる植民地支配者の共通した口実であった。
 和人は明治政府の同化政策の影響を受け、未熟な人権認識とアイヌに対する無知蒙昧から、結婚や仕事、日常生活において忌避や排除、差別発言を行っていたのである。
 




​​生きた民族資料 金成 マツ(かんなり まつ)​​

この写真の左は幸恵さん。マツさんは、この写真の右の人である。
尋常小学校でいじめを受けた幸恵に対し「和人に負けるな」と厳しく教育していたという。
マツを知る人は後に「あけっぴろげでエネルギッシュで綺麗な人だった」と回顧している。
母から受け継いだアイヌ口承伝承を大学ノート約2万ページに記録し、甥の知里真志保や金田一京助などに提供するアイヌ文学研究者のインフォーマント(informant・言語学で、資料提供者。ある特定の言語をありのままに発音・発話して、その言語の分析に必要な資料を提供する人)となった。
1956(昭和31)年11月3日に、文化財保護委員会は「アイヌのユーカラ」を文化財保護法に基づく「記録作成等の措置を講ずべきものとして選択された無形の民俗資料」に指定。その伝承地域等を「金成マツの伝承するユーカラ」とした。
当時の新聞はマツのことを「生きたアイヌ民族資料」と形容して報じた。同年に紫綬褒章を受章した。




​4、日本国民にアイヌに対する理解と尊敬を広げた金田一京助​​

 金田一京助は、1904(明治37)年、東京帝国大学文科大学に入学し、言語学科に進学した。当時、東大にはアイヌ語の研究者がおらず、アイヌ語辞典はイギリス人宣教師のジョン・バチェラーによって出版されるという状況であった。
 尊敬する上田万年(うえだ かずとし、国語学者、言語学者)から、「アイヌ語研究は日本の学者の使命だ」と言われ、東北出身の京助はアイヌ語を研究テーマに選んだ。1906(明治39)年、初めて北海道に渡り、アイヌ語の採集を行う。この調査で京助は研究に自信をつける。1907(明治40)年サハリンのオチョポッカで樺太アイヌ語の調査をする。 
 アイヌの子供たちを通じて樺太アイヌ語を教わったエピソードはこの時のことであり、のちに随筆『心の小径』で有名になった。金田一は生涯に渡り貧しい生活に耐えながらアイヌ語の研究に一生を捧げた。金田一の功績は、アイヌの言語、その言語が紡ぎだす高い文化性を明らかにし、日本国民にアイヌに対する理解と尊敬をいだかせる研究の大道を開いたことと、そのことを通じて、アイヌに誇りと自覚を与え、行動を促したことであろう。

​​5、「文明」という国民的バイアスに悩む金田一京助​​

 金田一京助は第二次世界大戦後はアイヌの同化政策に協力したとして批判を受けている。さらに、「自分一人、野蛮人のそんなものをやっていたら、みんなからとり残されてしまうのではないか。考えてみると、ずいぶんそれも寂しい気がしました。」(「金田一京助 私の歩いてきた道」)(1997年)と、アイヌを「野蛮人」と蔑む言葉を使い、世間の評価を集めることの少ない研究テーマを選んだことを後悔したことがあったことを告白し、批判を浴びた。
 明治の知識人と人権認識についていえば、島崎藤村は当時タブーとされていた部落差別をテーマに小説『破戒』を書き、部落差別を社会問題化する大きな役割を果たしたが、その取材ノートとも言うべき『山国の新平民』の中に、「こういう風に世の中にきらわれている特別な種族だから独立した事業という方面には随分これまでも発達し得られただろうが、知識という方の側にそういう種族が発達しえるかどうか」と書き、「部落民」を「特別な種族」と表現していた。
 神戸の都市スラムに居住し、貧困者を支援し、日本における協同組合運動や労働運動で先駆的役割を果たし、国民の人権獲得に大きく貢献してきた賀川豊彦もその著書『貧民心理の研究』において、「部落民」について「彼らは即ち日本人中の退化種(中略)また奴隷種、時代後れた大古民族なのである」(『賀川豊彦全集8』1919年発行)などと書いている。
 しかし、こうした記述が部分的に存在するからと言って、彼らの人権認識や業績が全面的に否定されるものではないことはいうまでもない。明治政府が「文明」という物差しで他国への侵略と植民地支配を正当化していく時代であったこと。さらに国民の間に、近代的な人権概念が未成熟で、「臣民」という日本式の平等概念が支配的な社会であったため、高い人権認識の上に立つ人と思われる人であっても、「人種・民族」に対する認識の中に僅かに後進性が温存されていることもあるのだ。
 かつて自由民権運動家の多くが演説会の帰りに遊郭で遊んでいたことは衆知の通りである。現代でも人権派弁護士が共にたたかう女性に性的関係を強制したとして問題となっていることを見ればわかるように、個人が近代的な人権認識を完全に獲得するという行為はそう簡単ではないのだ。例えて言えば、自らの体中の毛穴から自らの封建的汚泥を痛みに耐えながら掻きだすような苦闘を伴うものなのである。





​​金田一京助
1882(明治15)年、岩手県盛岡で生まれ、1904(明治37)年9月、東京帝国大学文科大学に入学した。新村出(しんむら いずる、言語学者。広辞苑の編纂・著者)や上田万年(うえだ かずとし、国語学者、言語学者)の講義に魅かれ、言語学科に進学した。​




​​6、『アイヌ神謡集』が日本国民に放った光​​
 
 金田一はアイヌの言語・風俗を調査しているうちに、「評判高いある少女の噂」を聞きつけた。その少女が、幸恵さんであった。日本語の表現力が豊かなこと、父母や伯母から聞かされたアイヌの口承を数多く正確に記憶していたことに驚き、口承を記録し、後世に伝えることの大切さを話した。
 幸恵さんの日記には金田一とのやりとりが残されている。それによれば、金田一が「あなた方のユーカラというものは、あなた方の祖先の戦記物語だ。詩の形にうたい伝えている、叙事詩という口伝えの文学なんだ。(略)叙事詩というものは、民族の歴史でもあると同時に文学でもあり、また宝典でもあり、聖典でもあったものだ。それでもって、文字以前の人間生活が保持されてきたのだ。」と、口承の文字化の必要性を語った。そうすると幸恵は目に涙をいっぱいためて、「ただいま目が覚めました。これを機会に決心いたします。私も、全生涯をあげて、祖先が残してくれたこのユーカラの研究に身を捧げます」と答えたとある。
 幸恵さんは重度の心臓病を患っていた(当時は慢性の気管支カタルと診断されていた)が、金田一の求めにより、1922年5月、18歳の時に、北海道を後にする。向かう先は東京にある金田一京助邸であった。幸恵さんはそこに居候し、金田一の助手としてアイヌ文学の翻訳、編集に懸命に邁進する。幸恵さんは翻訳・編集・推敲作業を続けた。一方で病状は悪化するばかり。1922(大正11)年9月18日に完成したが、その日の夜、心臓発作のため死去した。享年19歳であった。
 幸恵さんの完成させた『アイヌ神謡集』は翌1923(大正12)年8月10日に、柳田國男の編集による『炉辺叢書』の一冊として、郷土研究社から出版された。この本は当時の新聞にも大きく取り上げられ、多くの人が知里幸恵を、そしてアイヌの伝統・文化・言語・風習を知ることとなった。
 この本の出版は文字を持たないアイヌ民族にとって画期的な業績であった。さらに、アイヌ語の原文を日本人が誰でも気軽に口にだして読めるように、その音をローマ字で表し、日本語訳と併記した。さらに、アイヌ語から日本語に翻訳されたその文章には、アイヌ語・日本語双方を深く自在に操る幸恵さんの非凡な才能が遺憾なく発揮されているのである。 
 明治時代に入り、絶滅の危機に瀕していたアイヌ文化・アイヌ民族に自信と光を与え、重大な復権・復活への反転攻勢の転機となった。また、幸恵さんが以前、金田一から諭され目覚めたように多くのアイヌ人に自信と誇りを与えた。幸恵の弟、知里真志保は言語学・アイヌ語学の分野で業績を上げ、アイヌ初の北海道大学教授となった。さらに、数多くのアイヌ文化人を世に出し、広くアイヌの文化的水準の高さを日本中に知らしめたのである。







​ユーカラとは歌われる叙事詩(韻文の物語)​​

アイヌに文字文化は無かったが、口承伝承による物語があった。それは主に歌われる叙事詩である。

​●「神のユーカラ」(神謡)​
神々が主人公となって自分の体験を語る。その物語は主人公である神の性質により二つに分かれる。
①主人公は熊、オオカミ、キツネなどの動物。トリカブトやオーバユリなどの植物神。船、錨などの物神。火の神、雷の神などの自然神。
②人間の始祖とされる文化神が自分の体験を語る物語である。

​●「人間のユーカラ」(英雄詞曲)​

人間を英雄とする物語で、民族的な戦争において活躍する英雄たちの物語である。

​●散文の物語(酋長の話し)​
​実在のアイヌの酋長の話しが中心で、アイヌ部落と住民の習慣・儀礼、生活や文化、などが物語になっている。​
​(知里真志保『神謡について』岩波文庫を参考)​







梟の神の自ら歌った謡
「銀の滴(しずく)降る降るまわりに」

「『銀の滴(しずく)降る降るまわりに。』という歌を私は歌いながら流れにそって下り、人間の村を通りながら下を眺めると、昔の貧乏人が今お金持ちになっていて、昔のお金持ちが今の貧乏人になっている様です。」
私とは梟のことである。神である梟が人間社会の様子を語っているのである。
物語は梟が貧乏人の子どもにわざと弓で射られてやり、その子どもの家に行き、財宝をもたらすというものである。
動物をはじめとする万物の本質はカムイ(神)であると考えるアイヌの思想がよく著されている。​​










​◯アイヌの精神文化の復活をめざした―萱野 茂​ ​

​●萱野さんについては訪問した「萱野茂二風谷アイヌ資料館」、「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」に展示されている紹介文や資料、『アイヌの碑』(朝日新聞社)をもとに紹介させていただく。​





​萱野茂「日本にも大和民族以外の民族がいる」​​

萱野さんもアイヌ語に突き動かされた。
1926(昭和元)年、北海道沙流郡平取町二風谷に生まれた。当時すでに、アイヌ語を自在に操れる人が少なくなっていたが、幸いにも萱野さんはアイヌ語を母語とする祖母に育てられたため、アイヌ語を身につけていた。
萱野さんは、家が貧困なために小学校を卒業するとすぐに山仕事などで働きはじめた。成長するにつれて、コタン(村)に出入りする和人の研究者たちが研究と称してアイヌを「検体」扱いしたり、先祖の遺骨を無断で掘り出したり、民具を持ち去る様子を見て怒りを持ち、アイヌとしての誇りに目覚めていく。
萱野さんはわずかな収入でありながら、節約を重ね、民具・民話を自ら収集・記録し始めた。
1994(平成8)年国会議員となり、「日本にも大和民族以外の民族がいることを知って欲しい」という理由で、委員会において史上初のアイヌ語による質問を行った。
言葉は民族なのだ。言葉がある限り民族は滅びないのである。





​1、差別と貧困の中でアイヌの誇りを自覚した​​

​ 萱野さんは生まれ故郷の二風谷の冬の状況を自伝『アイヌの碑』(朝日新聞社)に、「空にはちぎれ雲ひとつなく、紺碧の大空が広がっています。沙流川(さるがわ)対岸の松林はやや黒ずんで見えますが、それ以外の大地は雪に覆われて全くの純白です。」「昭和七、八年ごろの二風谷(にぶたに)のわが家は、アイヌ家屋特有の萱(かや)の段葺(だんぶき)の屋根に板囲いでした。(中略)その板は反り返り、大人の握りこぶしが楽々通るぐらいの隙間があいていました。ですから冬が近づくと、母と姉が大量に糊をつくって、新聞紙などを板壁の内側に貼り、隙間風や雪の入ってくるのを防ごうと努めたものです。」と、清浄な空気と静かな森に包まれているアイヌコタンの冬の厳しさを説明し、そんな中で、「そういう貧しい寒い家でしたが、私たち兄弟は元気で雪の中を跳びまわり、そり遊びに夢中になったものです。着ているものといえば、股の割れたメリヤスの股引(ももひき)をはいていましたが、夏の着物に冬着を重ねただけでした。」と、貧しい中でも兄弟仲良く遊んだ思い出を語っている。​
 そんな萱野さんがアイヌに対して和人の理不尽な抑圧政策を肌身に感じたのは、父親が警官に逮捕されたときであった。萱野は前記の書に「父は、鮭の密漁のかどで逮捕されたのです。毎夜毎夜獲ってきて、私たちや兄弟や近所のおばあさんたちに、さらに神々にも食べさせていた鮭は獲ってはいけない魚でした。」と、父親の罪を説明している。 
 アイヌが鮭を獲れなくなったのは「旧土人保護法」により、やせた劣悪な条件の土地を「給与」して農耕を強制し、どこでもいつでも自由に熊や鹿を狩り鮭や鱒を獲っていた狩猟民族の権利を一方的に禁止したためであった。





​豊かな自然の中にある二風谷(にぶたに)コタン

豊かな自然に囲まれた二風谷コタンは清々しく美しい。その中に多くのチセ(家)が復元されており、神と共に生きてきたアイヌの平和で自然循環に適った日常生活が想像できる。
このコタンの中に、アイヌ文化関連施設が集積している。「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」や「沙流川歴史館」などがあり、国道をわたると「萱野茂二風谷アイヌ資料館」もある。
この地で萱野茂は生まれ、悩み苦しみながらアイヌの復権のために生涯を賭けたのである。
しかし、その人生をこのコタンに重ねると、やはり幸恵さんと同じようにカムイの使いのように考えてしまう。
二風谷コタンはアイヌ文化を学び、体感することができる空間のようである。




​​2、知里真志保―アイヌがアイヌのことを研究していることに感動​​


 萱野さんは、家族の生活を支えるために小学校を卒業と同時に山子(木こり)になり、後に「萱野組」という孫請けの組をつくり、小学校の頃からあこがれていた「親方」にもなった。さらに、「アイヌ文化を正しく伝えたい」という興行師に騙されて内地の小、中学校などでアイヌの歌や踊りを披露して金を稼ぐという仕事もした。その時、内地のアイヌに対する認識不足に驚いている。「学校の先生でさえ、『日本語お上手ですね』『着ているものは日本人と同じですね』などという有様です」(前記の書より)と驚き、アイヌの本当の姿、文化を紹介しようと考えたのである。
 萱野さんは山仕事をしながら、アイヌ民具の蒐集にかけずりまわっていた。その中で、アイヌ民族として自覚が高まっていった。そんな中、1954(昭和29)年、知里幸恵さんの弟、知里真志保さんがアイヌ初の文学博士の学位をとったことが新聞に掲載された。アイヌがアイヌのことを研究していることに感動した。そして、1957(昭和32)年、知里真志保が平取町の役場にアイヌ語の録音にきたときに出会い、それ以来、アイヌ語の記録に協力することになった。
 萱野さんは知里真志保さんが1961(昭和36)年5月に亡くなった時、「先生がアイヌとして悩み、苦しみながら残された学問的業績は、永久に朽ちることなく私たちの心の中で不滅の星として輝き続けることでありましょう」と、心から尊敬の気持ちを表している。




​​萱野さんの不滅の星・知里真志保​​

萱野さんが最も尊敬し、目標としたのは知里真志保であった。真志保さんは知里幸恵の弟である。
真志保さんは1909(明治42)年登別市で生まれた。北海道庁立室蘭中学を卒業後、幌別役場に就職するが、アイヌに対する差別があり、退職した。その後、金田一京助に進学を勧められ、進学を決意する。 
1930(大正5)年、第一高等学校に入学。1933(大正8)年、東京帝国大学文学部英文学科に進学した。
1937(大正12)年4月に言語学科に転科する。同年4月から同大学院に入学するが、中途退学し、樺太の豊原女子高等学校に教諭として赴任し、教鞭をとるかたわらアイヌ語の調査・研究を行う。後に、北海道帝国大学の教授となり、アイヌの文化の復興と社会的地位向上のために、「アイヌ協会」設立にも参加した。また、アイヌ民族の独立といった考えを主張したこともあった。
もともと病弱な体であったこともあり、苛酷な人生の労苦が重なり、1961(昭和36)年に52歳で病没した。



​3、アイヌを知らない日本人とたたかうアイヌになろう​​


 萱野さんは知里真志保さんの遺志を継ぐかのように、アイヌ民具だけでなく、アイヌの言葉、アイヌの話、アイヌの風習を集めなければならないと考え、記録のために当時は高価なものであったテープレコーダーやアイヌの古老の取材のための交通費などを得るために、あの有名な登別温泉のクマ牧場で働くことになった。
 仕事はクマ牧場の横で、アイヌ風の家を建て、その中でクマ送りのときの歌や踊りを30分間で観光客に見せるというものであった。ほんとうは5年か10年に一度のクマ送りを一日に3回も4回も演じたそうである。
​ 萱野さんは「いくら金のためにとはいいながら、日本中からやってきた観光客、もの珍しそうにアイヌの私たちを見る客の前で、うれしくも楽しくもないのに唄い踊る惨めさといったら、ほかの人にはうまく説明することはできませんでした」と、当時の気持ちを語っている。​
 しかし、そうした中でも得たものはあった。日本中の観光客から発せられる、「日本語が上手ですね。どこでおぼえたの?」「学校は日本人と同じに行くの?」「税金を払うの?」などという質問を受けながら、日本人の多くはアイヌの現状を本当に知らないのだということが理解できたのである。




​​「萱野茂二風谷アイヌ資料館」​​
​​アイヌの誇りと和人との交流拠点が生まれる​​

萱野さんが山仕事や、「うれしくもたのしくもないのに歌い踊る惨めな観光アイヌ」などをしながら資金を貯め、資料館を建設するまでに集めた民具は2百種2千点にのぼったという。
萱野さんは、この膨大な民具を火災などから守るために、萱野さんは自力で資料館を建設しようとしたが、計画を聞きつけた、平取町や「アイヌウタリ協会」などが、「アイヌ文化資料館建設期成会」を結成して建設運動を起こすことになり、1972(昭和47)年、「二風谷アイヌ文化資料館」として開館された。
5年後の1977(昭和52)年に土地・建物・展示資料とも無償で平取町へ移管し、それから15年間は平取町営の資料館として運営されてきた。 
萱野さんの和人の研究者への怒りは、誇りに昇華し、和人との交流拠点としての資料館へと結実したのである。



​​4、憎しみを越えてアイヌ文化の発信者に​​

 萱野さんは和人のアイヌ研究者を憎んでいた。「私が彼らを憎む理由はいくつかありました。二風谷に来るたびに村の民具を持ちさる。神聖な墓をあばいて先祖の骨を持ちさる。研究と称して、村人の血液を採り、毛深い様子を調べるために、腕をまくられ、首筋から襟をめくって背中をのぞいて見る」(前記の書より)
​ 萱野さんはそうした和人研究者の行為を見ながらアイヌとしての自覚に目覚め、自覚の証として民具を収集することをはじめたという。そして、「お金はわたしがだしたものだからいいとしても、集めた民具は私たちアイヌの共有財産です。わたしは自分だけの力ででも、資料館のような建物を建てようと決心した」その集大成として1972(昭和47)年、萱野さんはそれまで収集していた民具などを公開するため「二風谷アイヌ資料館」を設立したのである。その5年後の1977(昭和52)年に土地・建物・展示資料とも無償で平取町へ移管し、それから15年間は平取町営の資料館として運営された。​
​​ 1992(平成4)年に「二風谷アイヌ文化博物館」が開館するとともに、旧資料館のほとんどの資料はすべて博物館へ移されたが、同年、旧資料館の建物を再利用し萱野茂の新たなアイヌ民具コレクションと新たに製作した民具資料によって「萱野茂二風谷アイヌ資料館」として存続している。この資料館には萱野さんが40年にわたって収集したアイヌ民具だけでなく、世界の先住民族の民具や絵画など計千点以上が展示されていて、世界の先住民の暮らしに息づく思想や信仰をも知ることができる。​​
 萱野さんは民具収集だけでなく、1975(昭和50)年にはアイヌの民話を集めた『ウェペケレ集大成』で菊池寛賞を受賞している。また、1977(昭和52)年には10年ぶりに行われたイヨマンテを主催し、記録映画「イヨマンテ 熊おくり」(監督・姫田忠義)を製作している。





​「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」​​

1991(平成3)年、「にぶたにダム湖」のほとりに仮オープンし、「二風谷アイヌ資料館」の資料はすべて博物館へ移された。
萱野さんの資料館と比べると、建物の形は近代的で規模も大きいが、博物館としては小さい。しかし、コタンの中の博物館という設定が効果を発揮し、北海道という厳しい環境の中での、アイヌの生活の様子を感じることができる。
館内も、さすがに萱野さんが収集した資料が基礎となっているので、衣類や狩猟・漁撈の道具、装身具などアイヌの生活に関する資料が、わかりすく展示され、アイヌ学習の入門編としては最適な資料館となっている。
展示室のテレビにはイメージ映像とともにユ―カラが流されていて、一定のリズムでアイヌ語で語られる物語を見ていると気持ちが清々しくなる。
萱野さんをはじめとするアイヌの和人へのとても優しいメッセージを感じられる場所だった。




​5、萱野茂―アイヌ初の国会議員となる​​

​ 1992(平成4)年に第16回参議院議員通常選挙に日本社会党から比例代表の名簿第11位で立候補(この時は次点で落選)。1994(平成6)年に繰り上げ当選でアイヌ初の国会議員となり、「日本にも大和民族以外の民族がいることを知って欲しい」という理由で、委員会において史上初のアイヌ語による質問を行ったことでも知られる。​
 アイヌ民族を「保護」する法律としては「旧土人保護法」があったが、前記のようにアイヌ民族の保護ではなく同化政策の推進であった。さらに、「旧土人」という呼称に差別意識が含まれることへの批判もあり、廃止運動も起こっていたが、「旧土人保護法」を単に廃止するだけではアイヌ民族を保護する法律が失われるため、それに代わる新法を成立させようという運動が進められた。
​ 1997(平成9)年『アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律』(以下、『アイヌ文化振興法』)が成立するとともに、「旧土人保護法」は廃止された。国会でその中心人物として活躍し、法律が成立した後、萱野さんは国会議員としての目的を果たしたとして一期限りで引退した。その際「人(狩猟民族)は足元が暗くなる前に故郷へ帰るものだ」という言葉を残している。​
 その後、2019(平成31)年、『アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律』(通称「アイヌ施策推進法」)が制定された。この法律はアイヌ民族を初めて先住民族と明記し、従来の文化振興や福祉政策に加えて、地域や産業の振興などを含めたさまざまな課題を解決することを目的としている。
 知里幸恵が消滅しかかったアイヌ語という光を守り、知里真志保、萱野茂が輝きを大きくし、その光はアイヌという日本における先住民を包み込んでいる。







コタンはほんまにええとこや。「文明」なんてものは我々生き物にとっては地獄かも知れんな?




※次回は アイヌを学習して部落問題を考えてみた③

(仮題) ウポポイに行って考えた
―なぜ日本人は人種・民族差別を克服できないか​

アイヌを学習して部落問題を考えてみた① 司馬遼太郎が絶賛した探検家-松浦武四郎から学ぶ

​​アイヌを学習して部落問題を考えてみた①
司馬遼太郎が絶賛した探検家-松浦武四郎から学ぶ
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​​​ウポポイ(Upopoy・民族共生象徴空間)

2022年11月、私たちは北海道白老郡白老町にあるウポポイを訪ねた。「ウポポイ」とはアイヌ語で「(おおぜいで)歌うこと」を意味している。
この施設は2020(令和2)年7月12日に開業された。施設の案内資料では国立アイヌ民族博物館、国立民族共生公園、慰霊施設を整備しており、アイヌ文化の復興・創造・発展のための拠点となるナショナルセンターであると宣伝しているが、果たしてそうか?アイヌを知るための「入門編」としての施設としてならば分かる。一方で、北海道のインバウンド需要を引き上げるためのエンターテイメント施設ではないかという疑念もわく。





 はじめに
 
 今回からとても苦手な人種・民族問題探究の旅に出かけることにします。

 長年、部落問題の解決を生業(なりわい)としていると、「人種・民族問題も同じ人権のことだからよくわかっているでしょう」と、「言われる」ことがある。これは六甲山も富士山も同じ「山」だから、「六甲山に登れたら富士山にも登れるでしょう」と言われているのと同じで、「人権のことなら何でもお分かりでしょう」という嫌味にもとれるが、どうやら当方のひがみのようである。 
 本心から「人権は何でも同じ」という認識が広がっているのだ。 
 この背景を分析すると怖い。長年にわたり、政府・自治体が人権問題を「心」(「差別を許さない心がけ」)の問題として「人権教育・啓発」を進めてきた成果が反映しているからである。 
 政府や自治体の「人権教育・啓発」は、それぞれの人権問題の基本的性格や歴史性の相違、差別の定義を明確にして行われていないため、独自の解決過程や到達点は無視され、道徳的に「差別は悪い」という「心がけ」を教えるだけになってしまっている。その結果、すべての人権問題は「心がけ」というお題目に「包括」されてしまっているのだ。
 「解放同盟」の皆さんが提案している「包括的差別禁止法」は、この流れの上に立っているようである。差別の定義を曖昧にしては人権問題は解決しないことは明白であり、そのことはたびたび本ブログで明らかにしている。
 人種・民族問題は「心がけ」の問題ではないことを明白にするために、今回から3回にわたり、現地を歩きながら、アイヌ問題について学習し、果たして「心がけ」や「包括的」という概念の中に、日本における人種・民族問題が収斂できるかどうか検証してみたいと考えている。そのうえで、「包括的差別禁止法」についての論評は後の機会に行うこととしたい。






​​​​松浦武四郎記念館・遅れた評価​

記念館は松阪市小野江町にある。北海道から遠く離れたこの地でなぜ北海道の探検を夢見、そして、実現した人物が生まれたのか。
この疑問を解くために、私たちはまずこの松浦武四郎記念館を訪れた。 
記念館は松阪市(旧三雲町)が、松浦武四郎の功績を偲び、松浦家で代々大切に保存され、寄贈を受けた武四郎ゆかりの資料を展示する博物館として、平成6年(1994年)に開館した。
平成20年(2008年)には、松浦家から寄贈された資料のうち、1503点(現在は1505点)が国の重要文化財に指定されている。​​
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​1、伊勢街道が育てた探検家-松浦武四郎​

​◯探検家-松浦武四郎(まつうらたけしろう)の歴史的評価

 著名な民俗学者の宮本常一​​​​は「北海道開発のためにつくした人は、ほかにもじつはたくさんいたのです。そのなかで松浦武四郎の名も忘れることはできません。武四郎は徳内よりも重蔵よりももっともっと多くの時間をかけて北海道の内部をくまなく歩いて地図をつくり、また明治になってからは、北海道開拓のための大方針をたてた一人でした。」と、業績を評価しつつ、さらに、「蝦夷地探検でみられますように、かれのアイヌへのあたたかい人間愛、公正無私で信念のつよい人柄は、探検のための探検家ではなく、そのまえに、尊敬されるヒューマニストとしてよみがえってくるのです。」と、武四郎の深い人間愛を評価している。(『辺境を歩いた人々』河出書房新社)
 また、国民的作家の​司馬遼太郎​は「松浦武四郎は、日本史が輩出した探検家で一番意志力が強く、科学的で、文章力のほかに絵画描写力もありました。北海道に生涯を入れあげた大旅行家です。蝦夷地は当時、道路といえる道路がない。山野を跋渉(ばっしょう)していくうちに、アイヌに同情していく。そこが松浦武四郎の非常に魅力的なところです。江戸期の知識人のヒューマニズムを知ろうと思ったら、松浦武四郎を知れば何となくわかってくる。」(『司馬遼太郎が考えたこと―12』新潮文庫)と、武四郎の科学性と、卓越した記録能力、そして、アイヌの生活と文化に対する理解と同情の深さを評価している。
 武四郎は未知の世界への関心、危険を恐れずに飛び込む勇気、そして、アイヌを愛し、理解し、民衆の理解を得るために発信するという現代でも通用する探検家としての能力をどうやって身につけたのであろうか。
 


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​​松浦武四郎
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1818(文政元)年にいまの三重県一志郡三雲村雲津川の南岸にある小野江で生まれた。身分は郷士で、家は伊勢街道ぞいにあり、代々庄屋を勤める裕福な家であった。
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​​◯探検家―伊勢参りの旅人たちが武四郎を育てた​​

 武四郎が探検家になった大きな動機は家が伊勢街道沿いにあったことにあるといわれている。幼き日より、お伊勢参りする人々の姿を見、見るだけでなく交流しながら成長したせいか、名所図会や地誌などを読むのが好きで、日本中の名山や名所・旧跡をめぐることに思いをよせていたようである。
 伊勢参りは古くからあったが、全国に広がったのは江戸時代の中期以降といわれている。農業・灌漑技術の進歩により、裕福な農家も生まれ、新たな農業技術や商品作物の知識や見聞、物品を求めて旅をする者が現れるようになったが、農民の移動には厳しい規制があった。そうした中、伊勢神宮参詣を目的とする旅についてはほぼ無条件で通行手形が発行してもらえたため、「伊勢参り」を目的にして旅をする参拝者は大きく増加したのである。 
 さらに、地主に隷属した小作人、封建的家族制度に支配された女性や子供、年季奉公という束縛下にあった商家の丁稚、小僧、下男下女らの人たちが、たとえ無断で旅に出ても(「抜け参り」)、伊勢神宮参詣に関しては、参詣をしてきた証拠の品物(お守りやお札など)を持ち帰れば、おとがめは受けないことになっていた。
 武四郎は伊勢街道から日本社会の縮図を観察し、名山、名所・旧跡、城下町、宿場、偉人・賢人に巡り合うことを夢見て成長したのである。
 探検家は未知の世界への探究心と危険を恐れない勇気、そして、科学的精神が必要であるといわれているが、武四郎の生育環境にはその条件が備わっていたのである。




​​伊勢街道と武四郎の生家

武四郎の生家の前は伊勢街道が通っていたため、その影響を大きく受けたといわれている。
文政13(1830)年、武四郎が13歳の時に起こった「文政のおかげ参り」は、日本の人口が約3000万人と推定されている時代に、一年間に約500万人もの人びとが、全国からお伊勢参りにやって来たとも言われ、想像を絶するほどの賑わいであったようだ。
かつて武四郎の家の前の街道の両脇には宿場もあり、旅人で混雑していた。その旅人たちのお国自慢や歌や踊り、人生に悲哀を感じるなどを通じて、未知の世界に憧れて武四郎は探検家としての心を育てたようである。​​



​◯探検家―松浦武四郎と清廉潔白な大塩平八郎​

 武四郎は夢想家でありながら非常に計画的であった。彼が家を出る時に父親は一両しか渡さなかった。父親は金が無くなれば帰ってくるだろうと考えていたようだ。しかし、武四郎は旅費を稼ぐための手段として篆刻(てんこく)技術を身につけていた。篆刻とは印章を彫ることで、幕末には富裕な農民や商人の間で俳諧や書画が流行し、それに捺す篆刻の希望者が多いことを知っていたのだ。
 武四郎は大阪で大塩平八郎(おおしお へいはちろう)と出会っている。大塩は武四郎が気に入ったらしく、「お前、しばらくここにとどまってみればどうか」と、塾への入門を勧められている。恐らく大塩の潔癖さと正義感が武四郎の思想と共鳴しあったのであろうが、武四郎の本質は政治家ではなく探検家であり、探検が未だ途上であったため断っている。
 大塩は、儒学者で大坂町奉行組与力でありながら、江戸幕府に対する反乱である有名な「大塩平八郎の乱」(1837《天保8》年)を起こした人物であるから、弟子になっていれば後のアイヌ探検家武四郎は存在していなかった。 
 しかし、武四郎は大塩の清廉潔白な姿勢と幕府の腐敗への批判、農民救済の思想には強い共感を持っていたはずである。それは武四郎のアイヌに接する態度、アイヌを奴隷的に搾取する松前藩や商人に対する怒りは大塩に極めて似ているからである。
 



​潔白・正義の人-大塩平八郎

大塩平八郎は1793(寛政5)年に大坂東町奉行与力(当時の中級役人)の家柄に生まれた。
陽明学を学び、心に浮かび上がってくるものを大事にし(心即理)、自分の中でよいと信じることは行動にしなければ意味がない(知行合一)と考える人で、奉行所内の不正・腐敗を正義感と潔癖さで徹底的に摘発した。
1830(文政13)年に与力を辞し、養子の大塩格之助に跡目を譲り、隠居後は学業に専念し、大塩は自宅に『洗心洞』を開き、子弟を指導した。武四郎はこの頃に大塩に出会い、短い期間ではあるが、教えを受けているのだ。​​










​​​​大塩平八郎終焉の地・大阪市西区靱(うつぼ)公園

※石碑は靱本町1丁目の天理教の境内にあったが、建物の改築に伴い、石碑は靱公園に移設された。

天保の大飢饉により、各地で百姓一揆が多発していた。
こうした中、大坂町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)は大坂庶民の窮状を省みず、豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していた。その結果、米不足から米の高騰を引き起こされ、庶民は飢餓状態に陥っていた。 
大塩は奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否された。そこで自らの蔵書5万冊を全て売却し(六百数十両になったといわれる)、得た資金を持って救済に当たった。
このような状況のもとでも利を求めてさらに米の買い占めを図っていた豪商に対して怒りが募り、武装蜂起の準備を進めたが、内部から奉行所への密告者が出たため、大塩は計画を変更し(1837《天保8》年)2月19日(旧暦)の朝、自らの屋敷に火をかけ決起した。​​​









​​​​​明治維新への引き金-大塩平八郎の乱​

※上・「大塩平八郎と息子格之助の墓」。
1890(明治30)年に、大塩家の菩提寺である大阪市北区の成正寺に建てられた。
※下・「大塩の乱に殉じた人びとの碑」。
1987(昭和62)年、墓の隣に建立された。

天満橋(現大阪市北区)の大塩邸を発った大塩一党は、難波橋を渡り、北船場で三井呉服店や鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民と引っ張り込まれた大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となった。 
彼らは「救民」の旗を掲げて船場の豪商家に大砲や火矢を放ったが、いたずらに火災(大塩焼け)が大きくなるばかりであった。史料によれば、この火災による被害状況は、天満を中心とした大坂市中の5分の1が焼失し、当時の大坂の人口約36万人の5分の1に当たる7万人程度が焼け出され、焼死者は少なくとも270人にのぼるといわれている。 
大塩勢は各地で奉行所の部隊と衝突したが、奉行所側に蹴散らされ壊滅し、決起はわずか半日で鎮圧された。しかし、この乱は幕府の腐敗と衰退を天下に示し、討幕の機運を高めたといわれている。​​​​
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​2、松浦武四郎の蝦夷地探検​
 
◯長崎で蝦夷地探検を決意する

 蝦夷地(えぞち)とは、大和朝廷の支配下に入るのを拒んだ蝦夷(えみし・えぞ)と呼ばれた人たちの住む地域のことであり、その範囲は時代により異なる。奈良時代では中部地方から東が蝦夷地であった。日本が統一されてゆくに従い、次第に東、北へと範囲は狭まってゆく。やがては日本人(和人)がアイヌの居住地を指して用いる意味に限定されていったといわれている。 
 江戸時代になると松前氏が大名に列し、松前藩(現在の北海道松前郡松前町)となるが、幕府は米が採れない蝦夷地に関心を持っていなかった。
 1792(寛政4)年、ロシアの使節ラクスマンが松前藩に来たり、1804(文化元)年、レザノフが長崎に来て貿易を要求するなど、ロシアの南下政策が露骨になるにつれ、警戒心と国防意識が強くなり、近藤重蔵や間宮林蔵に蝦夷地の探検を行わせた。1808(文化5)年に林蔵は樺太から黒竜江付近の探検をし、間宮海峡を発見している。
 武四郎は各地を放浪し、1838(天保9)年に長崎にたどり着く。かれはここで赤痢にかかり、生死を彷徨い親切な僧侶に助けられた。その僧侶の勧めもあって臨済宗の僧侶になった。それから3年ほどは真面目に仏道を究めようしていたらしいが、探検家としての想いは止まず、長崎の酒屋町で代々名主をしている津川文作という情報通の人物から「このまま、蝦夷をうちすてておいては、いまに赤蝦夷(当時のロシア人をそう言った)によってすっかり奪いとられ、末代まで悔いを残すことになる」と聞き、蝦夷地探検を決意した。
 



​​​​​アイヌコタン(人間の村)とチセ(家)​

武四郎は学習意欲が高く、記憶力もいい人であった。3回目の調査の頃にはアイヌ語をかなり話せるようになっていたらしい。
武四郎は河川や山々、道路の調査だけでなく、気候や風土、そこに暮らすアイヌの人々の生活にも関心を持ち、記録をしている。​​​​



​​〇武四郎は自費で蝦夷地の探検をはじめた ​​
 
 武四郎の蝦夷地探検の構想は「幕府は蝦夷地に役人を遣わしたけれども、みな海岸をめぐって、内地まで探った者はいない。自分は山脈や川筋をきわめ、人情や物産をさぐって、後日、国のために役立てよう」というもので、それまでの幕府の海防目的だけの単純な探検ではなく、蝦夷地の海岸地形だけでなく内陸の地形、産物やそこに住む人々の文化・社会、人情まで把握しようとする壮大なものであった。最初それを自費で一人でやろうとしたのだ。
 第1回目の探検は自費で1845(弘化2)年に行った。この探検では海岸づたいに礼文華、有珠、室蘭、沙流、日高の海岸を通り、襟裳岬をまわり十勝へ行き、さらに、釧路から知床まで歩き、函館に戻っている。
 武四郎は江戸に戻る途中に水戸藩に立ち寄り、藤田幽谷と並ぶ水戸学の権威である会沢正志斎に会い、探検の内容を報告し、蝦夷地の防衛の重要性と緊急性を訴えた。尊王攘夷の急先鋒であった水戸藩にとっては武四郎の情報は重要であった。その後、武四郎と水戸藩とのつながりは強くなり、武四郎の蝦夷地探検の後ろ盾のようになっていく。
 2回目の探検は1846(弘化3)年に、カラフト詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行した。カラフトは一般庶民が足を踏み入れることができない場所であったからだ。探査は択捉島から樺太にまで及んだ。江差では頼山陽の息子であり、勤王の志士で詩人の頼三樹三郎と出会い、旅することもあった。
 3回目の探検はつながりの深くなった水戸藩からも支援が受けられるようになり、1849(嘉永2)年クナシリ、エトロフに行く。その頃は蝦夷地の事情を探検記にまとめ出版しており、蝦夷地の専門家として高い評価を得られていた。
 4回目の探検は1856(安政3)年に江戸幕府から蝦夷御用御雇に抜擢されると、再び蝦夷地を踏査し、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。
 1869(明治2)年6月に「蝦夷開拓御用掛」となり、蝦夷地に「北海道」(当初は「北加伊道」と命名した。更にアイヌ語の地名を参考にして国名・郡名を選定している。




​​​アイヌのくらしを伝える「蝦夷漫画」​

武四郎の蝦夷地の調査は計6回。その調査の記録はあわせると151冊にのぼる。このほかにも、膨大な著作や出版物から、作家でもあり、出版者でもあった武四郎の業績を知ることができる。
武四郎は著作の中で、アイヌ文化を紹介するため、絵入りでわかりやすくアイヌの人びとの暮らしを描いた「蝦夷漫画」や、アイヌの人びとの姿をありのままに記すことに努めた「近世蝦夷人物誌」を自費出版し、庶民に文化が異なるアイヌの人びとへの正しい理解を訴えるものであった。​​
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◯武四郎はアイヌへの搾取と抑圧を告発した最初の日本人

 武四郎は日本の近代社会が最初に産んだ探検家であり、アイヌ人からもっとも信頼された人物であり、未知の世界を勇気をもって歩き、そこに住む人々にいささかの偏見も持たず、原住民固有の言語・文化に尊敬を払い、正しく理解しようと努めている。その姿勢は植民地獲得時代の先兵となった宣教師や探検家らの他人種・民族を見下げる姿勢とは根本的に異なっている。
 武四郎は単なる地理や自然の記録に留まらず、アイヌ民族やその文化に対しても敬意を表しつつ、民族と文化を守るために、まずアイヌ文化を正しく知って、理解してもらうことが必要として、アイヌ民族・文化の紹介を熱心におこなった。 
 前出の司馬遼太郎は松浦武四郎の描写力について、「(知床半島の雑木林を観て)雑木林を見ながら、松浦武四郎のことを思った。その日記や紀行文のたぐいも持ってきた。武四郎が愛した山川草木の中でその文章をよむと、自分がアイヌになって武四郎と話しているような気になる。」と、武四郎の日記や紀行文がまごうことなくアイヌの側に立って描かれていることを指摘している。(『オホーツク街道・街道をゆく』)。
 武四郎が出版した『蝦夷漫画』ではアイヌの文化がありのままに紹介されている。また、武四郎は、松前藩の「場所請負制」などの圧政に苦しむアイヌ民族の窮状を見聞きしたことで、幕府に対し、開発の必要性はもちろん大事であるが、それよりもまず今日のアイヌ民族の命と文化を救うべきであると、調査報告書の随所で訴えた。その結果、松前藩から命を狙われることになったが、一歩も引くことはなかった。
 『近世蝦夷人物誌』では、百数十人のアイヌの人々が実名で登場し、アイヌ民族の生き様を紹介した。しかし、ここでは松前藩や和人による圧政もそのまま記されていたことから、武四郎の生前には出版が許可されなかった。 
 武四郎の訴えにより、「場所請負制」は明治2(1869)年9月に明治政府の島義勇によって一旦は廃止が決定されたものの、「場所請負人」や商人らが反発したため、同年10月「漁場持」と名を変えて旧東蝦夷地(太平洋岸および千島)や増毛以北の旧西蝦夷地(日本海岸およびオホーツク海岸)で存続が決定された。 
 これに失望した武四郎は、翌明治3(1870)年に、開拓使の職を辞すると共に、従五位の官位を返上した。この潔癖さと、正義感は大塩平八郎の思想を引き継いでいるようである。
 武四郎は北海道に私人として3度、公務で3度の合計6度赴き、およそ150冊の調査記録書を遺した。その中から私たちが学ぶべきものは何か?それは司馬遼太郎が書いているように「アイヌの側に立てる人間」になれるかどうかであろう。

※第2回はアイヌ文化の崇高さ日本国民に知らしめ、19歳の若さで夭折した知里幸恵(ちりゆきえ)と、アイヌ文化、アイヌ語の保存・継承のために活動を続けた萱野 茂(かやの しげる)を訪ねる。





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​​アイヌのいのりイナウ 

上の絵は武四郎がイナウ(けずりかけ)の形とそれを作るアイヌの男たちを描いている。 
下の写真はアイヌの伝統的な家屋の東壁に神の出入りする窓がある。そこからみえる位置が祭祀の場となるので、イナウを立てならべた「ヌササン」(祭壇)が設けられている。 
武四郎はアイヌの言葉を学び、アイヌの精神文化まで深く理解したうえで、絵に書き、それを江戸で自費で出版し、蝦夷とそこに暮らすアイヌに対する正しい認識を広げようとしたのである。
あの時代に、こんな日本人がいたことを忘れてはならない。​​
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