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あなたは差別意識がなぜ生まれるか知っていますか? 人権教育・啓発が新しい差別社会をつくる

​​​​​​ あなたは差別意識がなぜ生まれるか知っていますか?
      人権教育・啓発が新しい差別社会をつくる



​​​市街地の大木 神戸市長田区にある長田神社のクスノキ。樹齢は不明だが、周辺住民に伝承されている話しによると300年と言われている。​​



 
 はじめに 

 今、差別意識という言葉の意味が混乱している。混乱の根源は日本政府にあることはいうまでもない。
 『人権教育および啓発の推進に関する法律』(2000年6月施行)にもとづき、人権教育・啓発に関する基本計画」(「人権教育・啓発計画」)を策定した。それにともないすべての自治体においても「人権教育・啓発計画」を策定している。
​ その共通した趣旨は「国民一人一人の人権尊重の精神の涵養を図ることが不可欠」ということであり、人権侵害を発生させる主な原因は「国民の人権尊重の精神が低い」ことであり、それが「差別意識や偏見にとらわれた言動」につながっていると明記しているのである。​
 国民の「人権尊重の精神が低い」という意味は? 
​ それは人権尊重に対する心、意識、気構え、気力、理念が脆弱であるということであり、「人権尊重社会を精神力で構築せよ!」ということのようだ。まるで戦前の軍国主義国家のスローガンのようで全く科学性を感じられない。​
 さらに、この法律には致命的な欠陥があるのだ。それは精神を形成する意識および差別意識や偏見とは何か?差別意識や偏見が発生するメカニズムとは何か?が明確にされていないことだ。 
​ そこで今回は私たちの顧問、ブラ猫先生にサンマ二匹を講師料にして「差別意識」の本質についてお話しを聞いてみた。以下はブラ猫先生のお話しを要約したものである。​

           
​​​ブラ猫先生​ は私たちの顧問だ。クスノキの根元の空洞に住み着いている。年齢は不詳だ。「ブラ猫先生」の由来はいつも「ブラブラ」しているからという説と、「ブラク」に生まれたからだという説があるが、どうでもいいことだ。​​



1、意識と実態の関係―いちご大福はいちご大福である

〇部落差別が実態概念だという理由
 例えばいちご大福はいちごと大福がひとつになったもの。
 分けるといちご。
 分けると大福となる。
 そのままでもおいしいが、分けるといちご大福とはいえない。
 わけると本質が変わる。​分けるな危険。​

​〇部落差別を意識と行為にわけると部落差別にならない​
 差別意識のない差別行為は存在しない。
 差別行為がなければ差別意識は存在しない。
 差別意識を差別的記憶と混同してはいけない。

​〇部落差別の存在は実態でしか確認できない​
 実態がないということは差別意識もないということだ。
 実態が減少しているということは差別意識が減少しているということだ。

​◯部落差別に関する意識調査は必要がない​
 差別意識は実態である差別事象の発生件数に一致すると認識すべき。
 差別事象は「氷山の一角」でなく流氷である。流れ流れて溶けてゆく。
​※意識調査や実態調査に反対しながらそれを資料にして「差別解消」の証明にするのはもうやめよう。​

 差別の実態から差別意識だけを切り離して肥大化させていくとどうなるか考えてみよう。このまま差別意識のみを限定して人権教育・啓発や人権意識調査が継続されていくと、実態と差別意識の乖離が生まれ、新しい部落差別(ゴースト)を生む危険性があるのだ。
 さらに意識とは何かについて深めてみよう。

​​●詳しくは当ブログ・2019年04月16日「部落に関する意識調査の原理は『オレオレ詐欺』に似ている」を参照を。​​



​イチゴ大福​ だれが創作したかはしらないけれど、果物と餅を合体させるとはすごい発想だ。でもイチゴと大福を分けるとイチゴ大福ではなくイチゴと大福となる。
イチゴ大福の好きな人よ。分けるな危険。​​​​



​2、意識とは何か?―差別意識は個別的なものである​

 差別とは法(国際法・国内法)により保障され、政治的・社会的にも承認されている基本的人権が侵害される、もしくは侵害された状態に置かれていることである。
​ このように差別の概念はほぼ明確にされているが、差別意識の根源となる意識の問題については長年にわたり宗教、哲学、心理学、社会心理学などにより探求されてきたが、依然として明確に定義されていない。その理由は意識が「心」「心理」などとも表現され、人間の存在の根幹にかかわる特別なものであると考えられてきたためである。​
 プラトンは(BC428-348)は人間を霊魂(心)と身体(肉体)の二つに分け、アリストテレス(BC384-322)は、心は心臓の働きであると考えた。デカルト(AC1589-1650)は心は身体(物質)とは別に存在するという二元論により、心と世界の関係を科学的に認識しようと試みてきたが、産業革命を推し進めた科学技術の発展が哲学にも多大な影響を与え、カント、ヘーゲル、マルクスを経て存在と意識を統一的に認識することが主流となった。さらに、脳科学の発展は意識は脳という物質の働きの産物であり、存在と認識は分割されることなく、脳内の活動によって統一的に行われていることが証明されているのだ。
 しかし、不思議なことに二元論は今もなお存在しているのだ。人権教育・啓発においては、差別は「心理的差別」(心)と「実態的差別」(実態)の二元論に基づき行われ、「実態的差別」は減少してきたが、「心理的差別」は広く残存しているとし、教育・啓発活動が展開されているのだ。
 いまや意識と実態は分離できないことは明白だ。 
 ゆえに差別事象が発生すれば、その事象に「差別意識」が存在しているとしても、その「差別意識」が社会全般を支配しているという根拠にはならない。極めて個別的なものと考えるべきなのだ。
 ネットで「地名総監」を売る奴がいても、みんなが売りたいとは思っていないはずだ。

​​●詳しくは当ブログ・2019年06月05日「差別とたたかえる人、差別をもてあそぶ人 ​-若一光司さんと長谷川豊さんの人権認識の落差を検証する-」を参照を。​


        
​​ルネ・デカルト​(仏・1596年―1650年)フランス生まれの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり …」は有名。​​



​3、意識とは何か?― 二元論では部落差別は解決できない​​

​ 今日の脳科学の発展は意識は脳の活動であることをほぼ突き止められている。意識は脳という物質の働きであり、生きるために必要な情報を収集し、分析し、適応するために最善の方法を選択する情報処理機能なのである。​

※「意識とは何か。それは脳の機能である。これは馬鹿みたいな答えだが、それしか言いようがない。意識の問題がこじれて唯心論や唯物論が生じるわけだが、どんなことを論じるにせよ、ものごとには前提というものがある。」『唯脳論』(養老孟司・ちくま学芸文庫)

※意識はいわば志向性を持つ高次な脳の情報処理の一様式である。意識を考えるとき、われわれの悪い癖は初めに辞書を持ちだして、それが持つ多様で重層的な意味領域に幻惑されてしまいホールドアップをかけられてしまうことである。『意識とは何か』(苧阪尚行・岩波科学ライブラリー)

​ 脳科学の視点からいえば部落差別意識とは脳に集積された情報の一部ということであり、その情報が誤っているために部落差別が発生するのである。情報は社会的な価値判断と個人的価値判断が相互に関連し合い利用されるから、部落に対する誤った情報を信じる人が多ければ部落差別は数多く発生するし、情報を信じない人が増えれば部落差別は減少していくのである。​


​4、無意識と意識―差別意識の正体は記憶​

​ 意識が人間が生存するために脳が行う情報処理の機能であるとすれば、差別意識は誤った情報に基づく脳の活動の一部にすぎないことになる。コンピューターでは誤った情報は正しい情報を上書きすれば消去できるが、人間の脳は「誤った情報か?正しい情報か?」を判断する基準がなければ情報を修正できないから厄介なのだ。​
 人間の意識を定義すると、無意識と意識に区別される。無意識は五感にかかわる感情であり、音楽や絵画に感動する。リンゴを食べておいしいとか、甘ずっぱいとか、そういう生々しい感覚のことを指す。いわゆる「覚醒感覚」というべきものである。その本体は無意識なのだ。
 意識については次の通りである。
​​①判断できること​​
 蛇は怖いという感覚的なものから、毒蛇と毒のない蛇を区別できる。りんごを色や形を見るだけで甘さや酸っぱさが判断できる。
​②表現を選択できる​
 意識の中で最も顕著な例は「言葉」だ。「意識」の中でかなりランクが高い。意識は少なくとも、短い時間、情報を脳に取っておかなければならない。「短期記憶」が働いている。「ワーキングメモリ」(working memory)。
​③意識は選択するための根拠を持っている​
 その根拠というのは必ず「過去の記憶」に存在する。過去の経験によって脳の状態が変わる。これを「可塑性」という。
※言葉というのは実はそれぞれ単独で存在しているのではなく、脳の中で、ある単語とある単語は内容が近い、ある単語とある単語は意味が結びついている。というようにグループ化されて、カテゴリー化されて、連合されて存在している。『進化しすぎた脳』(池谷祐二・朝日出版社)
 人間は誤った情報も正しい情報も記憶するのだ。

​​●詳しくは2018年01月29日「消えゆく『部落民』―心のゴースト③​​​​​心になぜ差別・偏見というゴーストが生み出されるかを探究する」を参照を。​​​ ​​​

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意識と記憶 意識は情報処理をするための機能である。そのためには記憶機能が必要なことはいうまでもない。​
友人と食事に行ったが料理はまずかった、おいしかったという感覚記憶とともに、友人のお金を建替えたという短期記憶が結びつく。それとともに前にも貸したが返してもらってないという長期記憶がよみがえり、友人と喧嘩になる。
※プライミングとはあらかじめある事柄を見聞きしておくことにより、別の事柄が覚えやすくなったり、思い出しやすくなることをいう。​​



​5、意識の変革―差別記憶はつくられる​​

 ある親しい元教師(88歳)が話してくれた。「小学生の時、仲のいい友達を家に連れてきた。帰った後、母親から『もうあの子とは遊ぶな』」と言われた。その友人は「部落」の子だった。母親のその言葉に衝撃を受けた。今でも記憶に残っている」。
 言葉は愛する、信頼する人の言葉ほど強く記憶に残るらしい。差別意識などはもともと存在していない。意識が差別意識を持つのは差別的な言葉を記憶するからである。
 そこで、差別・偏見の認識がどのように形成されるか、心理学史の巨人といわれているスイスのピアジェ(J.Piaget)の4つの発達段階に沿って説明する。
●誕生から2歳(感覚運動期)
 感覚と体を使い外の世界を知っていく。
​ ※愛情、恐怖、嫌悪、憎悪の対象を感覚的に身に着けていく。​
●2歳から7、8歳(前操作期)
 頭の中で考えることが出来るが自己中心的。心の中と現実が混同する(アニミズム)。
​※目の前にいなくても愛情、恐怖、嫌悪、憎悪すべき対象を自己流に描けるようになる。​
●7、8歳から11歳、12歳(具体的操作期)
 具体的なことは論理的に考える。
​※愛情、恐怖、嫌悪、憎悪に対する感情について自己説明ができるようになる。​
●11、12歳以降(形式的操作期)
 抽象的なことや一般的なことを考えることが出来、実際に目の前にいなくても、言葉だけでもイメージすることができるというのである。
 ​以上のように差別・偏見は言葉によって形成され、脳に記憶されるのだ。だから差別・偏見は生まれつき持っているものではなく、持たされたものなのだ。
 前記の元教師は衝撃を受けたが、人を差別することに疑問を持ちはじめたという、その理由は、家には連れてこれなくなったが学校では友人関係が続いていたからだという。そして、疑問は科学的な知識を得ることにより解かれ、与えられてきた記憶が誤りであることに気づいたという。
​ 友人関係と科学的知識が与えられた記憶が誤りであると認識させたのである。​

​​​●詳しくは2019年10月10日「私たちは人権社会を実現すると称して「憎悪の種」をまいてはいないか―京都アニメーションの事件現場を訪ねて」を参照を。​ ​​

          

意識は脳活動の総体 ​脳は進化の過程で様々な機能を獲得した。特に前頭葉は意識を司る中心機能として位置づけられるが、意識活動は脳部位全体が相互関連することで行われる。
見る(後頭葉)―思考する(前頭葉)―判断する(頭頂葉)―運動する(前頭葉)という活動を一瞬のうちに行う。当然ながら組み合わせは無数にあるのだ。​​


​​6、意識は暴走する―「人権教育・啓発基本計画」​​
 
 意識は人間の生存を維持するために広い活動を行うものであり、差別意識は意識活動の一部にすぎない。むしろ、差別意識は差別記憶である。差別記憶は多様でありながら個別的であるから、基本的には一般的な教育・啓発はなじまない。にもかかわらず、「人権教育・啓発基本計画」は国民の差別意識をなくすと称して教育・啓発活動を進めている。しかも、「結婚差別、就職差別、忌避」などという事例を引き合いにして、差別者、被差別者を問わず恐怖感情を煽っているのだ。 
 これははじめて子どもたちが同和教育を受けたときの思い出を聞くとよくわかる。異口同音に「教室が暗かった。すごく緊張した」と言うのだ。こうした恐怖感情を広げることは差別記憶を強めたり、差別記憶のない人々にも差別記憶をうえつけることになるのだ。
 その結果、実態からかけ離れて差別意識は肥大化し、「ネット差別」にみられるような妄想的な差別書き込みが発生してくるのである。
 私は政府や自治体による人権教育・啓発は必要だと思っている。それはあくまでも目的と範囲を限定して行うべきであると主張してきた。今回のコロナウイルス禍で発生した差別は未知のウイルスに対する恐怖感と無知が生み出したことは明白である。こうした疫病が蔓延した時、自主的な学習活動とは言ってられないはずである。
 部落差別に対する人権教育・啓発については実態から見て教育・啓発の目的はすでに達成されており、時代遅れの二元論に基づく教育・啓発を継続していくことは新しい差別(ゴースト)をつくり出す結果になるものと考える。
 勿論、一年を通じて部落差別が一件も発生しない最終段階に到達しているとは考えていない。実態に即した対応は必要である。実態に即した対応とは以下の通りだ。
​①部落差別に関わる人権意識調査は止めること​
「意識調査は止めろ」と主張しながら意識調査を引用して差別の解消を証明するのもやめるべきだ。
実態を見れば差別意識の状況はわかるはず。
​②部落差別の実態調査はやめること​
 法務局、地方自治体に寄せられる人権相談の内容を分析すれば実態把握は充分だ。
「部落・部落民」と一般国民を区別して実態調査を行うことは日本国憲法の人権条項に反する行為であるとともに国民の間に分断を持ち込む。
​③人権侵害を受けた国民の訴訟費用を支援すること​
 国および地方自治体は差別を受けた国民が賠償訴訟を起こしやすいように支援制度を拡充することだ。
 コロナ禍の中でも悪質な人間は出てくる。差別者も同じだ。そんな奴にはたっぷりと損害賠償させるのが一番の薬だ。

●詳しくは当ブログ・2019年07月17日「消えゆく「部落民」―心のゴースト⑥ つくられた歴史認識―こわされる歴史認識」を参照を。​

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​ブラ猫先生はノラ猫仲間からの信頼も厚い。また、難しい話の時は登場していただくことにする​


◯参考文献
 『進化しすぎた脳』(朝日出版社・池谷裕二)
  『心は何でできているか-脳科学から心の哲学へ』(角川選書・山鳥重)
  『意識とは何か』(岩波書店・苧阪直行)
  『唯脳論』(ちくま学芸文庫・養老孟司)
  『脳のしくみ』(新星出版社・中村克樹監修)
 『世界十五大哲学』(php・大井正・寺沢恒信共著)
  『哲学のことが面白いほどわかる本』(中経出版・浜田 正)
  『偏見や差別はなぜ起こる』(ちとせプレス・北村英哉・唐沢穣編)他。
  



消えゆく「部落民」―心のゴースト⑧​​​ ―京都「この世」「あの世」、「異界」めぐりの旅―​​​​​​

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​​​​消えゆく「部落民」―心のゴースト⑧​​​
―京都「この世」「あの世」、「異界」めぐりの旅―​​​​​



はじめに


 お盆が終わりました。あなたはお墓参りに行きましたか?あの世から戻ってきたご先祖様は機嫌よくあの世に戻りましたか?新型コロナウイルスの影響でお墓参りできなかった人も多いようですね。でも大丈夫、霊魂はあなたが心に念じればすぐにあなたのもとに来てくれます。こんなことを想像できるのは高度に発達した脳(心)を持つ人間だけで動物にはできません。
 お盆に行われる行事はみんな脳でつくられたあの世とこの世の交流の「儀式」ですね。儀式は抽象的な想像を現実に変える方法なのです。ここではご先祖様は霊魂であり、実態のないものですが、墓前で拝礼する。仏壇の供物をささげ、線香を立てて経文を称えるという「儀式」を通じて、あなたはご先祖様を心の中で実態化するのです。
 でも忘れてはなりません。こうした「儀式」が存続してきた根源には愛するご先祖様を供養する思いだけではなく、「私はなぜ生まれ、死んだらどうなるのだろうか?」という自身への問いかけが存在しているからです。
 人間は古来より、生と死、この世とあの世、陰陽、極楽と地獄、古代より人間は肉体と魂は別のものとして認識し、肉体が滅んでも魂は存在し続けると考えていました。これが宗教や哲学上の二元論の始まりのようです。
 今回はお盆に因んで、お堅い人権論から少し離れ、京都市内をめぐり、人間の脳が創りだした「あの世」と「異界」という虚構の世界を歩くことで、これらの「世界」が人間社会の矛盾に喘ぎ苦しみ、安らぎを求める人民の脳の反映であったという側面と、支配階級が円滑に人民支配をすすめるための手段であったという側面を明らかにしたいと考えます。
 その目的は、人間が現実と虚構の世界の相互関係を理解し、時代に合わない非人間的な虚構を捨て去り、現実を観察し、理解することができるようになれば、どれほど素晴らしい未来が開けるかわからないと考えるからです。






​​​​巨大な脳が創りだした「あの世」​​​​​
人間はネズミより小さい哺乳類から巨大な脳をもつ哺乳類に進化した。

約7万年前に突然、言語能力を飛躍させ、対象を抽象化し、普遍化する能力を獲得した。その能力により神仏という虚構(物語)を生み出し、その虚構のもとで協力しあう社会を創りだした。
狩猟・採取時代の虚構は横に協力し合う社会を築く、先祖の霊や自然崇拝などであったが、農耕社会がはじまり農業生産力が発展し、余剰生産物が増加する中、富を独占・管理する支配者層が誕生する中、旧い虚構が利用され、軍事、法、宗教がリンクした国家という新しい虚構が創られ、多数の人々は忍従と隷属がしいられることになった。
人間の脳は理解できないことは想像力で補う。その想像力が生み出した世界こそが「あの世」と「この世」だ。 
脳は本能的に死を恐れ、死を回避しようとする。そのために常に生と死について考え本質を究明しようとしてきた。
仏教は「あの世」の虚構を示すことで、人々の「この世」での苦を緩和する道を開いた。それは、軍事力を背景にした刑罰よりも社会を安定させるのに効果があったようだ。

※すべてが始まったのはおよそ7万年前、認知革命のおかげでサピエンスが自分の想像の中にしかないものについて語りだしたときだ。その後の6万年間に、サピエンスは多くの虚構のウエブを織りなしたが、それはみな小さく局地的なものだった。(中略)それでも、先祖の霊や貴重な貝殻についての物語は、サピエンスにとって大きな強みだった。
(『ホモ・デウス』上・ユヴァル・ノア・ハラリ)
​​※詳しくは・2019年01月29日・「『サピエンス全史』から考える日本人の「穢れ」という認識」​ をお読みください。




​​嵯峨野「竹林の道」―「あの世」への道​​​
人間は生物、しかも高度に発達した脳を持っているため、死の恐怖は死後の世界を想像させ、「あの世」という虚構の世界を創りだした。 
その内容は信仰(宗教的立場)によって多少は異なるが天国(極楽)と地獄のニ元論が基本になっている。
宗教的指導者の多くは「あの世」を見てきたように説明するが、実際には「あの世」に逝って帰ってきた人はいない。だから「生まれ変わり」という儚(はかな)い夢にすがりつく宗教もあるのだ。

​​​​「竹林の道」を抜けると「あの世」​​​​
京都嵯峨野は古代、太秦を根拠としていた豪族の秦氏によって開発が進められたとされている。平安遷都後には、風光明媚なため、天皇や大宮人たちの絶好の遊猟、行楽地だった。
光あれば陰があるのが世の習い、渡月橋や保津川などおなじみの場所から、一番京都らしさを感じられる「竹林の道」に入る。この道は化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)、愛宕念仏寺のある北嵯峨野に続く道でもある。
「竹林の道」の風音を聞きながら歩いていると化野念仏寺にたどり着く。嵯峨野はこの世から「あの世」にしらずしらずの間に入りこむように設計されているようである。

※私たちは生まれ育つ過程で、自分たちの世界を、慣れ親しんでいる既知の領域とそうでない未知の領域に分割するようになる。多くの場合、慣れ親しんでいる領域は、秩序づけられた友好的な世界、つまり「われわれ」として分類できる者が住んでいる世界である。
(『異界と日本人』小松和彦)








​​​​​​​​​​​​​​​化野念仏寺―身体は野に捨てられた​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​
化野念仏寺は、京都市右京区の嵯峨野にある浄土宗の寺。
ここには「あの世」がある。化(あだし)とは、「むなしい」「はかない」という意味で、「生」が化して「死」となるという意味らしい。苔むした石仏・石塔が寄り集まっている景色はなぜか温かい。
古代、人間は死によって肉体は死滅するが霊魂は身体から離れると考えられていた。心が脳という物質の活動によって生み出されているということがわかっていなかったからだ。
身体は土に還るものであると考えていたので、人が亡くなると遺体を野ざらしにし、そのまま朽ちるに任せる風葬が主流で、遺体を鳥が啄んで処理するので「鳥葬」とも呼ばれた。 
京都には3カ所遺体が捨てられた場所(鳥辺野)があった。

​​​仏教が供養する心を儀式化した​​
寺伝によれば平安初期の弘仁2(811)年、真言宗の開祖空海が疫病が流行っていた都を訪れた際に、疫病の発生を抑える為に捨てられている遺体を土葬することを人々に教え、さらに、遺骨を埋葬しその上に1,000体の石仏と堂を建て、五智如来寺と称したのが始まりと言われている。
石仏が出来ると人はその前で手を合わせるようになり、多くの人の思いが込められると稚拙な細工の石仏にも魂が宿り、深淵な意味が与えられる。
石仏のまわりには石塔・墓石が集まる。ここから集団供養がはじまる。供物を供え、線香をあげ、経文を唱える。支配者に冨が集中するにつれて供養は儀式化し、盛大化する。それとともに仏教は支配者の庇護のもとで隆盛となった。
現在、境内には約8,000体という夥しい数の石仏・石塔があるが、これは明治36年(1903年)頃に、化野に散在していた多くの無縁仏を掘り出して集めたものである。​​






​​​​​​​​供養の広がり―六波羅蜜寺​​​​
六波羅蜜寺 (ろくはらみつじ)は、京都府京都市東山区にある真言宗智山派の寺院。
死には「穢」というイメージが付きまとう。死は恐ろしいもの、悲しいものだから遠ざけたいという感情から「穢らわしい」ものとした。特に疫病による死体はその考えを強くしたはずである。だから、鳥辺野に捨てた。
10世紀に律令制度を施行するため細則「延喜式」(えんぎしき)には「穢」というものは、人と家畜の「死」と「産」、それに失火によって生じるものとある。
空想は儀式化され、現実化していったのだ。

​​​​​「穢れ」は死への恐怖から生まれた​​​​​​​
こうした文献を素直に理解すれば、皮多(後に穢多)という特殊技能民が忌み嫌われるようになったのも家畜の「死」を扱うことが発端であろう。
また、別の見方をすれば、荘園領主が特殊技能集団を固定化し、その生産物を独占化するためには都合のよいイメージでもあったのだ。

​​​浄土教―空也上人登場​​​
10世紀の半ばごろ、鳥辺野や鴨川の河原に打ち捨てられていた死体を供養する遊行僧が現れた。それが空也上人である。
穢れに満ちた死体、忌み嫌っていた死体を拾い集め、埋葬し、手を合わせて念仏を唱えたのである。
しだいに死体を供養しなければ極楽浄土にはいけないという来世信仰が一般庶民に広がりはじめ、土葬・火葬が広がり始めたという。
六波羅蜜寺には空也上人立像がある。鎌倉時代の作で、国指定の重要文化財である。

※釈迦はあくまでも生きている人間の苦を問題にしたのであって、死者を葬るということに関心を向けなかった。(中略)ただ、中国においては、仏教が葬式と結びついていくきつかけとなる出来事が起こっている。それが浄土教の流行である。
(『坊さんは葬式などあげなかった』島田裕己)
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​​​源信僧都―霊魂の行く先「あの世」​​​
人間は霊魂があると信じ込んだ。そして、霊魂は「あの世」に行くと信じた。そのことによって、人間は死という恐怖から解放されることを確信した。それから人間の脳は「あの世」とはどのような世界か空想をめぐらすことなった。
宗教の違いによって、「あの世」は様々な世界に描かれているが、仏教では如来の住む極楽浄土、永遠の責苦を受ける地獄が主なものである。
比叡山の源信僧都は『往生要集』をあらわし、極楽と地獄の姿を極めてリアルに描き出した。特に八つの地獄の記述は恐ろしいが、地獄での残酷な罰は現世の悪行に対応しており、自動的に「この世」の支配者の創りだした道徳的規範を宗教によって補完する役割を果たしているのだ。
地獄は現世の反映に過ぎないようだ。

​天皇・貴族―極楽を金で買おうとした​​​
源信さんの活躍した時代は、釈尊の入滅から2000年目以降は仏法が廃れるという末法思想の時代。さらに、この時代は天災・人災が続いたため、人々の不安は一層深まり、その不安から逃れるための厭世的思想として広がっていた。
芥川龍之介の『羅生門』には平安末期の京都の庶民の状態が描かれている。それによると、引き取り手のない死体を羅生門に捨てるという習慣ができていたので、羅生門の上には死体が転がっていたというのである。
実際に、飢餓や疫病で死んだ人の遺体は前記の「鳥辺野」や鴨川の河原に捨てられていた。
ひどいのは天皇・貴族である。人々の苦しみをよそに、収奪した冨を浪費し、極楽往生するために、阿弥陀如来を本尊とする仏堂を盛んに造営した。その代表例が宇治の平等院鳳凰堂である。
余程地獄に行くのが恐ろしかったようである。

※極楽はどこか遠くにある。見ることのできない国なのである。(中略)地獄は足下にあり、極楽は山のあなたにある。地獄は我々の住む六道の中にあるが、極楽はまったく別の世界なのである。
(『地獄の思想』梅原 猛)





​​​天皇・貴族―怨霊を恐れた​​
北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、京都市上京区にある神社。
天皇・貴族が恐れたのは地獄だけではなく、怨霊も恐れた。これは怨みを持った霊魂のことで、「あの世」にはいかず、現世に禍をなすことである。
平安時代における天皇・貴族は権力の争奪戦を続けていた。世は謀略と呪詛の時代であり、権力から追われたり、殺された者の怨念が祟りとなって、疫病、飢饉、天災を引き起こしていると考えられていたのだ。
菅原道真(すがわらのみちざね)は平安時代の貴族。当時は藤原氏の全盛時代であったにもかかわらず、醍醐天皇の信頼をえて右大臣にまで昇りつめたが、藤原氏の反感を買い、謀反を計画したとして(昌泰の変)、大宰府へ左遷され現地で没した。 

​​​怨霊は神様にできる―北野天満宮​​
道真の死後、京都では天変地異が起こり、藤原氏では相次いで有力者が病死し、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王までもが突然死した。『日本紀略』はこれを道真の恨みがなしたものだとし、道真が怨霊と化したと考えられた。
支配者といえど人間。良心の呵責(かしゃく)というものがあったようだ、悪事を働けば働くほど深い悩みとなり、偶然に生起する天変地異も怨霊の仕業となるのだ。
御所の清涼殿に落雷があって、天皇の恐怖は絶頂となり、菅原道真の祟りを収めるため北野天満宮が建立され、ここから、雷神を信仰する天神信仰が全国に広まり、菅原道真が優れた学問の才能を持っていたことから、天神は学問の神様として信仰されるようになったのだ。怨霊もご神体として祀り上げれば神様になるのである。
虚構は都合よく創りかえられる。

※つまり妖怪と人間が友好関係を取結び、結果的に人間の制御下においてしまうわけである。祀り上げられた「妖怪=神」は、その後の人間の処遇に満足すれば、彼らの守護神として働くことになるだろう。そう考えてきたのが日本人である。
(『異界と日本人』小松和彦)







​​​​晴明神社―「異界」の鬼を退治する​​​​​
晴明神社は、京都市上京区にある。安倍晴明が祀られている。
境内には復元された一条戻り橋があり、その脇に愛嬌のある式神(晴明の手下の鬼)がいる。晴明は921(延喜21)年に摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれたとされる。また、生地については、奈良県桜井市安倍とする伝承もある。幼少の頃については確かな記録がない。
ご存知のように晴明は陰陽師である。陰陽師は現実の社会において病気その他、災厄をもたらすものは「鬼」と表現し、その害を取り除く秘術を身に着けたものを指した。
秘術の中には「命の移し替え」(『金烏玉兎集』)という死んだ人間に生きた人間の命を移しかえるといものがある。
寛弘2(1005)年に晴明が亡くなると、天皇は晴明の遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、寛弘4(1007)年、その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建されたという。
この神社に行くと、当時の天皇・貴族たちがいかに怨霊の存在を信じ、恐れ、陰陽師たちを頼っていたかがよく理解できる。
支配者には支配者としての深い心の闇があったようだ。

※彼ら(陰陽師)は現実の世界において、病気その他の災厄をもたらすものを「鬼」と表現し、その害を未然に防ぐために定期的に祓(はら)いの儀式をしたり、あるいはまた病気などの具体的な形となって発現している災厄を、「鬼」と表現して祓い落としたりすることを仕事のひとつとしていた。
(『異界と日本人』小松和彦)





​​​​​​安倍清明・怨霊を鎮める陰陽師​​​
​​​​​​​​人間の空想力は「あの世」と「この世」をつなぐ「異界」を創りだした。
「異界」とは神や妖怪などが人間界に来るときに通過する世界であり、人間が「あの世」に行くときにも通過する中間の世界である。

​​​ 「この世」―― ​ ​異界​ ​​ ​――​​​ ​​​​​​「あの世」​​​​​​​​

この「異界」に住む者は人間と「異界」に双方の性格を持つものが偶像化される。例えば現在で言えば『ゲゲゲの鬼太郎』、平安時代では安倍晴明である。晴明の母親は狐であったという伝説がある。
陰陽師は占術と呪術を使い祟りを鎮めた。その陰陽師界のスーパースターが平安時代中期に活躍した清明である。
晴明の能力については様々な記録が残されている。『御堂関白記』によると、寛弘元年(1004年)7月には深刻な干魃が続いたため晴明に雨乞いの五龍祭を行わせたところ雨が降り、一条天皇は晴明の力によるものと認め褒美を与えたことなどが記されている。
平成以降、漫画化・映画化もされた夢枕獏の小説のヒットにより、主人公である安倍晴明のブームが起こり、全国から参拝者が訪れるようになった。
今では漫画・アニメーションの世界であるが、科学や医学が未発達な社会においては秘術こそが頼りであった。勿論、陰陽師たちが詐欺師集団であったというわけではない。彼らは天文、気象、疫病などについて伝承や記録から学び、社会や自然観察を通じてある程度の基礎知識はあったようである。​​​






​​​六道珍皇寺-現世と「あの世」の入り口​​​
六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。
この寺は小野篁(おののたかむら)が冥界(「あの世」の入り口)に通ったと伝わる井戸で知られている。
人間の空想力はすごい。いよいよ生身の人間が「あの世」と「この世」を行き来するという物語を創り上げたのだ。
この寺の所在地付近は、平安京の火葬地であった鳥辺野の入口にあたり、現世と「あの世」の境にあたると考えられ、「六道の辻」と呼ばれた。
鳥辺野が京都の葬送地として大規模化していった背景には仏教が説く「西方浄土」が大きく関係していたいわれている。京都の東に位置する鳥辺野から西の彼方にある極楽の地「西方浄土」へ向かうという願いが込められていたからという説もある。
ただ、平安京の頃は身分ある者しか墓を造ることが許されず、火葬もまた費用がかかることから、庶民のほとんどは風葬だったので、死体が捨てられた場所でもあったため、生と死の境界線と考えられたのである。

※死者の名前を読んで死者の霊魂を呼び戻す場所は、屋根の上が多かったが、井戸も使用された。井戸の中をのぞきこんで、名を呼ぶ行為は、地下に黄泉の国があると考えられていたことと結びついている。

(『呪術探究―死の呪法』豊嶋泰國)








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​​​​​小野篁―「あの世」と「この世」を行き来する​​​​​
小野篁が生まれたのは平安京遷都(794年)そのわずか8年後の802年である。
平安時代が始まったばかりのころで、この篁が有名なのは冥界の冥官、閻魔大王の補佐をしていたことである。
小野篁の冥界の冥官としての逸話は色々とあるが、なかでも有名な話は、小野篁の恩人の藤原良相(ふじわらのよしみ)が病気で他界して閻魔大王の裁きを受けている時に小野篁が閻魔大王に掛け合って藤原良相を生き返らせた話。
昼間は朝廷で仕事をして、夜は冥界でも閻魔大王の隣でバリバリ仕事をしているからすごい。

​​​許されぬ恋が道をひらく​​
篁が何故冥界に行くようになったかはあまり知られていない。契機となったのは愛する異母妹が死んでしまい、嘆き悲しんでいる時に妹の幽霊が現れ、幽霊との関係が続く中、幽霊と一緒に「あの世」に行くようになったという話しである。道ならぬ許されぬ恋がこの物語の背景にあったようである。
篁が愛する妹が亡くなった時に詠んだ歌がこの歌です。

泣く涙 雨と降らなむ わたり川 水まさりなば かへりくるがに
      (『古今和歌集』)​


篁のこうした逸話は『群書類従』の「小野系図」にも篁は「閻魔第三の冥官」と書かれている。

すごいですね。この世からあの世に珍皇寺の中庭にある井戸から行き来する人間が存在したのである。

※地下に通ずる井戸は現世と他界と境界のシンボルでもあった。また仏教説話的には三途の川とも関係しているだろう。死者が三途の川を渡りきる前によびもどさなければならなかったのである。
           
(『呪術探究―死の呪法』豊嶋泰國)
​​​​​​​虚構は社会の発展に対応する​​​​
今回は封建社会の人間の脳が生み出した虚構について考えてみました。
人間の想像力の広がりのすごさと、その想像した世界を構造化していく能力に驚きますね。
「この世」と「あの世」だけでなく、「異界」までを創りだした。
「異界」から死んだ人間が怨霊となってこの世に禍をもたらすと、それとたたかう陰陽師が登場する。最大のスターは安倍晴明だ。これはもう妖怪・アニメ映画の世界である。それらが京都の名所・旧跡にまつろう物語となっているから面白い。しかし、これは無知蒙昧が生み出した妄想ではなく、社会の発展段階に根ざした人々の想いのこもった虚構でもあるのだ。

虚構を破壊しつつ科学は発展した​​​

そうした虚構が支配する中で、科学は山奥に端を発する源流が大河になるが如く、人々は生存のために収穫量を増やすという一念をもとに生産技術の改善と改良を推し進める実践を続け、科学的探究心を成長させてきたのである。
科学的探究心は長い年月を経て医学や生物学、遺伝子学、ITやAIを発展させ、移植だけでなくクローン、IPS細胞まで創りだした。
新型コロナウイルスの世界的流行は宗教や信仰が無力であることを証明した。教会やモスクではクラスターの発生を食い止められなかった。また、日本の疫病を退散を願って続けられてきた祭祀はほとんど「感染拡大阻止」という名目で中止となった。
科学は完全に勝利したのである。
しかし、忘れてはならない。「この世」と「あの世」、「異界」がいかなる空想と想像による虚構であったといえども、その時代の状況、その状況から生み出された人間の苦悩や悦びが反映していることを。

※科学の勝利はあまりにも完璧だったので、宗教についての私たちの考え方そのものが変わった。私たちはもう宗教を農業や医療とは結びつけない。
多くの狂信的な信者でさえ、今や集団健忘症にかかっており、伝統的な宗教これらの領域の支配権を主張していたことを忘れがちだ。
        (『21世紀Lessons』ユヴァル・ノア・ハラリ)



国家の規制で「ネット差別」が消える社会はいい社会ですか? 女子プロレスの木村花さんの自殺と「ネット」規制

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国家の規制で「ネット差別」が
消える社会はいい社会ですか?
​女子プロレスの木村花さんの自殺と「ネット」規制​​​



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​はじめに キルケゴールの人間の「絶望」と「可能性」から​​​​​

 哲学者キルケゴール(1813年-1855年・デンマーク)は、著書『死に至る病』の中で、「人間には必ず死が訪れる。どんな人生を送ろうと、いつか死ぬ。だから人間はいつも絶望している」といい、同時に、人間は「可能性」によって生きられる存在とも言っています。
 「どんなにお金ができても、有名になっても、どうせ死んでしまう」のだからと考えれば絶望的になりますが、「いずれ金持ちになるぞ、いずれ有名になるぞ」と自分の将来の「可能性」を考えて生きている過程はどんなに苦しい生活をしていても人生は楽しいということです。
 強いストレスの状態にさらされると、気分を安定させる脳内神経の働きが悪化し、うつ病の状態が発症します。それをこじらせると自殺発生リスクが高まるといわれています。いつもはすぐに気持ちの切り替えができるような人でも、自分の将来の「可能性」を見失い、絶望すると、最終的には「自殺」という解決策以外、頭に浮かばなくなってしまうことがあるのです。
 自殺は極めて悲劇的な出来事であり、まわりの人間に深い衝撃を与え感情的にさせますが、極めて個人の複雑な精神活動によって発生するものであり、その原因を究明する際には慎重に行うべきであり、勝手に推量してはなりません。ましてや政治利用しようとするなどは悪魔の所行というべきものであり、厳に戒めるべきことです。




​​7月5日(日)鳥取県の大山に登る​​​​
前日の4日は梅雨前線が、鹿児島県、熊本県に豪雨をもたらし、大きな被害をもたらした。この日も再び梅雨前線は北上傾向にあり、被災地が再び大雨に見舞われている時間に登山とはなんとも後ろめたいが、​ボランティアに行くのには九州は遠く、コロナ禍のために県外からは受け入れていない。​
大山は昔から聖山と言われている山、被害がこれ以上広がらないよう祈りながらみんなと登ることにした。


1、女子プロレスの木村花さんの自殺と「ネット」規制​​


 木村花さんは5月23日に自殺(享年22)しました。自殺の原因は、2019年9月からネットフリックスで配信され、フジテレビでも放送されていた人気恋愛リアリティー番組「テラスハウス」に出演していた中での花さんの言動に対するSNSでの誹謗(ひぼう)中傷にあると言われています。

◯花さんの死はテレビ局の「やらせ」が原因?​​
 『週刊文春』(7月9日号)によれば、「花さんの死を契機に、政府は悪質なSNS投稿に対して罰則を含む法規制強化に動き出している。だが、事件の本質はそこにはない」として、取材班が取材した結果、花さんがSNSで誹謗中傷された原因として制作側が悪役プロレスラーの花さんを番組の中でも悪役を演じるように追い詰めていく演出があったと報道しています。
 花さんの死は本意ではない「やらせ」を要求され、葛藤し、苦しんだ末の死であったようで、演出された映像を見た一部の視聴者がSNSで誹謗中傷したことは主要な要因ではなかったようです。
 こうした事実を踏まえず、自民党が短絡的に花さんの死をネット上の「誹謗中傷・人権侵害」と位置づけ大騒ぎする姿はいささか便乗的で軽薄のような気がしますね。
 自民党は「森加計問題」、「桜を見る会」、特に「検事総長の定年問題」などでSNSが世論形成に大きな影響を与えていることに危機感を持ち、花さんの死によって、ネット上の誹謗中傷への批判が盛り上がっているのを利用して、言論規制、匿名での権力批判封じ込めに乗り出そうとしているのではないかという疑念が広がっています。

※人間は天使でもなければ、獣でもない。しかし不幸なことは、天使のように行動しようと欲しながら、獣のように行動する。
​パスカル(『パンセ』中央公論社)​​




​​​​​​​​​​夏山登山道から頂上へ​​​​​​​
夏山登山道の最初はなだらかな階段が続く、しばらくは杉の巨木の間を歩くことになる。やがて杉林はいつのまにかブナの林に変わる。
大山は標高1729m、中国地方最高峰の山で、「鳥取砂丘」と同じく鳥取県の自然遺産となっている。また、北西側から見た大山は、富士山に似ていることから「伯耆富士」(ほうきふじ)とも呼ばれている。
大山に息づく動植物と豊かな自然の景観により、登山者はもちろん観光者に四季折々の様々な姿をみせてくれる人気の山であるが、​この日はコロナと梅雨のせいか他の登山者にはほとんど会わなかった。​
大山の山頂へは様々なルートがあるが、実質の大山登山の頂上は弥山(みせん)となっている。
弥山は仏教の宇宙観にもとづく想像上の山岳である須弥山(しゅみせん)の略称で、全国各地にある。大峰山の弥山,厳島の弥山などがよく知られている。​
いずれにしても聖なる山なのだ。​​​



●詳しくは2018年10月11日・「人間愛の欠落した人権教育は必要か―神戸市垂水区の中三少女自殺から」を参照してください。​​


2、「ネット規制」へ自民党の素早い対応?​

◯規制ではなく最低限の改善が必要
 高市早苗総務相は記者会見(6月2日)で、花さんが死亡した問題を受け、当初予定した11月の総務省有識者会議の取りまとめを前倒し、7月に対策を取りまとめると明らかにしました。
 自民党は「インターネット上の誹謗中傷・人権侵害等の対策プロジェクトチーム」(自民党PT・座長三原じゅん子参議院議員)を立ち上げました。その会合では、投稿者の情報開示どころか、匿名投稿の規制や侮辱罪などの厳罰化を求める声があがり、意外にも基本的人権を軽視してきた自民党が人権侵害に対して厳しい態度を示しているのです。
​ 「プロバイダー責任制限法」(インターネットに接続するサービス事業者の責任を明記した法律)には発信者情報の開示請求権が規定されていますが、実際に、発信者情報を開示させたり、損害賠償をもとめるためには、(1)SNS事業者などのコンテンツプロバイダーへの開示請求。(2)携帯キャリアーなどのアクセスプロバイダーへの開示請求。(3)損害賠償請求と、実質的に3段階の裁判手続きが必要になります。また、訴訟を起こしたいと思って弁護士に相談したり、警察に行っている間にアクセスログの保存期間(3~6カ月程度)が過ぎてしまい、加害者に逃げられてしまうというのです。​
​ ネット上の誹謗中傷について日本の警察に寄せられた被害相談件数は、2017年では11749件にのぼり、年々増加してきているそうです。花さんのように被害者の中には精神的苦痛により自殺・自殺未遂をした人たちもいるそうですが、前記のように、多くの場合は発信者の特定がプロバイダ―の壁に阻まれ特定できないようです。こうした事態を踏まえると悪質な発信者に反省を求めるためには素早く発信者を特定するための最低限の改善は必要のようです。




​​​ブナの倒木と異常気象​
夏山登山道の3合目付近にブナの巨木が倒れ、根がむき出しになっていた。倒れている状況から見ると、雨で地盤がゆるみ、木の重みを支え切れなくなって倒れたようである。
日本の森林で、古来の姿を保っている場所は少ない。いわゆる原生林というのは、日本には本当に数えるほどしか存在しない。ブナのような常緑広葉樹林は、特に人間の生活範囲に生息しているため、まとまった面積が残っている場所はほとんど皆無らしい。
大山は修験道の山岳信仰に守られ、聖山として大切にされてきたので、昭和の後半までは山頂付近まで鬱蒼とした原生ブナ林が残っていたという。
ここにも人間の生み出した異常気象の脅威が迫っているように感じるのだ。​​​​​



​◯「誹謗中傷・人権侵害」という言葉に騙されるな​​

 SNSは、普通の人でも政治権力やマスメディアと対抗しうる情報伝達を可能にする重要な手段として定着し、中国の支配強化とたたかう香港市民の大きな武器となっていることから見ても、個人の表現の自由は自由・民主主義社会を維持する基本的条件となっています。ゆえに行き過ぎた規制、罰則はさけなければなりません。
​ 自民党が法改正の根拠としている誹謗中傷とは、「根拠のない悪口を言いふらして、他人を傷つける」ことですが、「根拠のない悪口」というのは一見すると科学的なようですが、現実社会においては明確に定義することは困難です。​
 政治家の秘書や企業の社員が内部告発した際にみられるように、「根拠がある」告発であっても告発された側が「根拠のない」告発と主張し、名誉棄損として、資金力に任せて訴訟を起こせば、裁判の判決がでるまでは告発人が加害者となり被告人にされてしまうのです。
 さらに、発信者の情報が簡単に開示されるようになると、例えば、「森友問題」の時に数多く発信されていた「安倍首相の奥さんが用地取得の便宜を図った」などという記事は「根拠のない悪口」としてすぐ削除されるかもしれません。下手すれば訴えられることになります。
 また、花さんのケースのように「やらせ」で煽られて誹謗中傷した発信者も、すべて加害者とされ、罰則の対象にされる可能性も出てきます。
 本来、「誹謗中傷・人権侵害」は、社会的弱者を守るべき言葉のはずですが、現実社会では政治家や企業など権力者や富裕層も利用できる便利な言葉でもあることも認識しておかなければならないのです。

※善や悪はただの名目にすぎず、容易にどちらにでも移し変えることができる
​エマーソン(『エマーソン論文集』岩波書店)​​

●詳しくは2019年11月21日・「『神戸市教員同僚いじめ問題』から考えてみよう -政治と官僚制度の「劣化」の原因-」を参照してください。




​​​​​​ブナ林を包む深い霧のなか​​​​
登山道を登るにつれて霧が出てきた。「もののけ」の世界であるが、残念ながら何も出ない。
そこで「もののけ」について考えてみた。​「もののけ」というのは「物の怪」からきており、人間の生命に対する「ものの気」をさし、超自然的な存在を承認する言葉らしい。​
もともとは古代人の「もののけ」は自然に対する尊敬と共存の思想なのだが、平安時代の頃から災いや祟りを引き起こす悪神を「もの」と表し、人間・生物に幸福安泰や恵みをもたらす善神の敵対概念として用いはじめたのだ。
人間は豊かに暮らすために自然を利用してきたが、「真の豊かさとは何か?」を考えることなく、無制限に欲望をかなえることが豊かさを実現することであると勘違いし、「もののけ」を敵にしてきた。
きつい登り道を歩きながら、新型コロナウイルス、異常気象は「もののけ」による反撃かもしれないと考えた。​​



​​3、「ネット部落差別」も規制されることになる​​

​◯悪質な「ネット部落差別」は無くせるか​
​​ ネットの発信者の情報が簡単に開示され、罰則化されると、部落差別解消推進法成立の根拠となった「ネット部落差別」もこの規制にかかります。「○○死ね!」「○○殺すぞ!」などという刑事犯罪として告発できるような常軌を逸した「強迫的差別者」、『部落地名総監』を拡散して喜んでいるような「変質的差別者」も規制しやすくなり、告発しやすくなります。​​
 すでにネット上の差別記事の削除に乗り出している地方自治体や部落解放運動団体はどんどん削除要請を出し、悪質な情報発信者は氏名や住所などの個人情報を公表され、社会的バッシングを受けることになるかもしれません。また、それでも反省しない場合には確認・糾弾されるかもしれませんね。そうなると、こうした人たちは「闇サイト」に逃げ込み、巧妙に発信するかもしれません。
 大切なのはこうした悪質な情報発信者に付和雷同してきた無理解からくる「ネット部落差別」発信者が正しい理解をすることで、悪質な情報発信者が社会的に孤立することであると考えます。

​◯無理解からくる「ネット部落差別」はなくせるか​
 こうした悪質な発信記事とネット上に部落問題に関連して発信されている多くの「部落差別発言」の類は明確に区別されなければなりません。
​​ 多くの記事は封建社会における身分制を起因とする差別認識からでなく、現代資本主義社会において人権と人格を破壊するような経済格差を強いられ、生活、文化、教育が貧困化する中で生まれている不平不満が政冶・経済変革への思想と結びつかず、そのはけ口として社会的弱者への攻撃の一つとして「部落差別発言」に転化したもので、その内容を検証すると、「幽霊話」のように、現実の部落問題解決の到達点と乖離したものが多く、非科学的な人権・同和教育と社会的合理性を失った同和対策がだらだらと長期化してきたことが要因となっているようですから、こうした発信記事は、とても「誹謗中傷・人権侵害」として定義づけられるような代物ではありません。​​
​​​​ むしろ私たちはネット上のこうした「無理解・誤解」から発信される記事については、政府、地方自治体、運動団体は自らの過失責任として自覚すべきであり、自らの理論・政策を鍛え上げ、持続的に科学的な部落問題をネットで発信し、対話と説得を基本姿勢にして「無理解・誤解」の解消に努力すべきであると考えます。​​​​
 この過程こそが、「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」(平成12年)による国民を一律的に差別者とする官制の教育・啓発を有名無実化し、低迷する自主的学習運動を活発化する機会なのです。

​※世間に存在する悪は、大半がつねに無知に由来するもので、明識がなければ、善い意志も悪意と同じほどの多くの被害を与えることもありうる。​
アルベール・カミュ(『ペスト』)



​​​​​​​霧が晴れるとキアゲハ(並揚羽)が出現​​​​​​
6合目を過ぎるとブナの森林地帯を抜けたこともあってか、霧は晴れていた。そんな中、目の前をゆつくりと数匹の蝶が舞いはじめた。アゲハチョウである。
​「妖精だ!」と思った。​
キアゲハはナミアゲハより前翅のつけ根が黒ずんでいて名前どおり黄色みが強い。日本の家紋にもよく使われており、一番有名なのは平家である。だからといってキアゲハの家紋を使っている家がすべて平家の子孫とはならない。江戸時代には庶民が幕府や大名以外の家紋をつけることはほぼ自由だったのだ。
大山は動植物だけでなく、1000種を越える昆虫、日本に生息する野鳥のうちその3分の1強が生息するといわれているのだが、いつまで守れるのだろうか。​


​●詳しくは2018年04月19日・「消えゆく「部落民」―心のゴースト④​​​​ ネット規制―あなたの「差別と偏見」が国家支配に利用される」を参照してください。




4、必要なのはソーシャルメディアの自己規制
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 社会の進歩には表現の自由は不可欠であり、為政者が為政者の都合に合わせて規制を強化すれば、政治が間違った方向に向かったときに軌道修正は働かなくなります。何が誹謗・中傷に当たるかは個別事案ごとに当事者間で議論するのが基本であり、公権力の厳罰を背景にして介入を強めると言論空間が委縮することになります。
 ネットに掲載された記事を「誹謗中傷・人権侵害」になるとして事前に規制するというのは「誹謗中傷・人権侵害」に当たらない意見をも封鎖する可能性があります。特に、政治家や企業への正当な批判まで封じ込められてしまう危険性があります。
 こうした危険性を踏まえると、まず行うべき対策は、
①まずSNS各社が自主規制することです。トランプの人種差別発言をめぐり自主規制はすでに始まっており、すでにフェイスブック日本法人やLINEなどSNS各社で構成する一般社団法人ソーシャルメディア利用環境整備機構は6月26日に発表した緊急声明で、名誉毀損や侮辱を意図した投稿を禁止し、違反者のサービス利用を停止するなどの対応を徹底すると表明しています。
​​②プロバイダーに対する発信者の速やかな情報の開示については、私人間において明確に名誉棄損に当たり、刑事事件にも該当するような「悪質な発信」についてのみ限定して行うことにし、「根拠のない悪口を言いふらしで、他人を傷つける」などという曖昧な定義による規制はおこなわないことが大切です。​​
③政治家や企業などの権力者が開示を請求した場合にプロバイダーが断れる権利も明確にしておく必要があります。権力者は国民の批判を常に真摯に受け止める側にいますから、「疑惑」や「辞めろ」などという批判にさらされることがあります。それを「誹謗中傷・人権侵害」という曖昧な定義でたちまち削除したり、罰則を与えることはSNSの事実上の統制となりますから警戒する必要があります。

 以上のように日本のSNSは重大な局面に差しかかっているようです。こうした事態を生み出したのは憎悪と敵意から生まれる「悪質な発信」にあります。私たちは「ネット差別」はSNSへの権力介入を生むと警告してきましたが、残念ながら事態は深刻化しているようです。
 今後提出される政府自民党の「SNS規制法」(仮)に注目し、表現自由を守るために理性的な発信を続けましょう。
 
​※自由とわがままの境は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。​
福沢諭吉(『学問のすすめ』岩波書店)




​​​​​​​​​​​​​​​​頂上は工事中でし​た​​​​​
8合目を過ぎると、国指定の天然記念物に指定されている「キャラボク」と呼ばれる常緑の低木が広がり、登山道は木道に変わる。広さ8ヘクタールのキャラボクは圧巻!
しかし、木道は霧に濡れているために滑りやすくなっているので、下手をするとスッテンコロリとなる。木道の外は場所によっては断崖。​落ちればあの世で本物の須弥山を見ることになるので慎重に歩いた。​
木道を登りつめた先はいよいよ山頂、山頂からの景色は360度。美保湾から出雲地方までの大パノラマが開けたはずだが下界は靄の中、なんと山頂は工事中であった。
九州豪雨のさ中に登山したことに対する小さな天罰か?と思った。こんな山頂でそう思える自分がいることか嬉しいと思った。​​​​


●詳しくは2019年06月05日・「差別とたたかえる人、差別をもてあそぶ人 ​-若一光司さんと長谷川豊さんの人権認識の落差を検証する-」を参照してください。​​​​

消えゆく「部落民」―心のゴースト⑦ ―コロナウイルスの恐怖から共同する社会へ-


消えゆく「部落民」―心のゴースト⑦

​―コロナウイルスの恐怖から共同する社会へ―​​​​​​


 はじめに
 新型コロナウイルスの感染の勢いが衰えてきたようです。それに合わせるように、「日本の感染者数や死者数は世界に比べて劇的に少ない」「政府の感染症対策が成功したからだ」などと、御用政治評論家や御用感染症の学者・専門家たちから提灯発言が出はじめています。​
 こうした評価はコロナウイルス知識のほとんどない私でも間違いであると断言できます。その理由は以下の通りです。
①日本列島は東西に長く、列島のど真ん中を2000m、3000m級の山脈が縦断しており、冬から春にかけて日本海側から北西の季節風が吹く、風は高い山脈を越え太平洋側に吹き降ろす。家の外に出るといつも風があるから、コロナウイルスは街中に長く滞留することができない。実際に太平洋側、日本海側に接した県では感染者数は極めて少ない。
②日本は四方を海に囲まれているので、港と空港をシャットアウトすれば、他国からの感染者は完全に入国できなくなる。
③日本人は握手や抱擁(ハグ)などの習慣がなく、日常的に他人との濃厚接触の機会が西欧人に比べて極めて少ない。
④日本人は古来より手洗いうがいの効用を認知し、日常的に行われてきた。また、マスクは毎年花粉症やインフルエンザ流行期には使用されており、着用に抵抗感がなくまたたくまに広がった。
 以上のような日本の地理的環境と生活文化、習慣・習俗を踏まえて考えると、密室状態になる飲食店・ライブハウス、感染者が通院・入院せざるをえない病院などにおいてクラスターが発生したとしてもパンデミックにはなりにくい有利な条件があったのです。
​ この上に、パンデミックが先行した中国や韓国、西欧のコロナ対策の教訓を踏まえて対策を講じていれば、日本の感染者および死者数は抑えられたはずです。​無能な安倍政権のコロナ対策が評価される根拠は全くないのです。​​
​ 「のど元過ぎれば熱さ忘れる」で、日本国民がこれ以上安倍政権を甘やかし続けると日本は本当に滅びるかもしれませんよ。​




​​​​​​​​​​​​ゴジラは地球の守護神​​​​​​

ゴジラは、日本の東宝が1954年(昭和29年)に公開した特撮怪獣映画『ゴジラ』である。当時社会問題となっていたビキニ環礁の核実験に着想を得て製作した。身長50メートルの怪獣ゴジラは「核の落とし子」「人間が生み出した恐怖の象徴」として描かれた。核兵器に対する恐怖を具象化したものであった。

ハリウッド製作のゴジラでは核兵器に対する恐怖は消えている。むしろ「必要なら核兵器を使うぞ」というアメリカらしい核兵器肯定論が込められている。
ハリウッド製ゴジラは地球の守護神となり、地球環境を破壊する侵略者を敵にしている。
申し訳ないが日本製ゴジラに比べると人間の恐怖心が投影されていないために浅はかな怪獣アクション映画になっている。​​​
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​​1、ウイルスが本当の地球の支配者かもしれない​

 最近、ハリウッドが制作したゴジラは地球の守り神として、宇宙から侵略してきたキングギドラとたたかって勝利する。地球の真の支配者はゴジラだったというお話しでした。映画は「ゴジラの怒りが人間に向かってきたら....」と不気味な予感を観客に与えて終わります。
 このゴジラ映画と新型コロナウイルス(コロナウイルス)の感染爆発を重ねてみると、欲望を進化させ過ぎて怪物のようになり果てた人間による地球環境と生態系の破壊を食い止めるために、地球の支配者であるコロナウイルスが次々と人間に攻撃をしかけてきているのではないかと考えることもできるのだ。
 実際にこれまでの流行経緯を見ると、環境の破壊が深刻化し、気候変動が世界的に大きな問題になるのに並行するように、サーズ(SARS)が2002年11月から2003年7月にかけて流行し、続いてマーズ(MERS)が2012年9月からはじまり、2015年5月に韓国で大流行し、さらに中国へと拡大し、数多くの感染者と死者を出しているのです。しかも、マーズは今もなお収束していず、2020年に入ってもサウジアラビアやアラブ首長国連邦でも発生しているのです。
 勿論、環境破壊とコロナウイルス発生の因果関係は未だ明確ではありませんから、こうした空想が生まれてくるのは怪獣やSF映画が空想特撮映画(今はCG映画)と呼ばれた時代から生きてきた人間が、長い緊急非常態宣言下で「ステイホーム」を強いられている抑圧感の中で生まれる「妄想」だと笑ってお許しいただきたい。


※悪霊の仕業とされた災厄を除く儀礼には、それぞれにふさわしい物語がつねに作り出されたはずである。おびただしい物語の多くが語りだされては、すぐに人々の記憶から消え去っていったのである。​
​​『絵物語の想像力-異界と日本人』小松和彦)​​





​​​​​​​​​​​​ダークサイド(暗黒面)に転落するな​​​​​​

『スター・ウォーズ』の悪役ダース・ベイダーは「ダークサイド」(暗黒面)に転落したジェダイの騎士という設定ですね。ダース・ベイダーは幼い時に愛する母親を殺され、その憎悪の種から暗黒面に転落し、暗黒面の統率者の配下として帝国軍の最高司令官になる。
一方には、「フォ―スの力」(理性)を信念とするジェダイの騎士団が存在し、帝国軍の統率者が支配する宇宙を理性に基づく共和国軍が取り返すためにたたかうという物語である。
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2、ウイルスは人類の「心の闇」に入りこむ
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 人類はこの10年の間に次々とコロナウイルスの攻撃を受け続けてきました。その最前線でたたかい、完全勝利とは言わないまでもコロナウイルスを壊滅に追い込みつつあるのが、電子顕微鏡、遺伝子解析、IT(人口知能)など、最先端科学技術に裏付けられた防疫・治療方法、感染の恐怖とたたかい未知のウイルスと命をかけて戦う医療従事者、ウイルス研究機関と製薬会社の共同による特効薬やワクチンの開発を進める科学者たちです。
 100年前に流行した「スペイン風邪」の時代に比べて、感染の広がり、感染者の数や死亡者数が各段に減少しているのはこの科学の力と言えるのです。しかし、コロナウイルスに対する無知は生物的な死への恐怖だけでなく、人間の「心の闇」に滑り込み様々な差別を発生させています。 
 コロナウイルスが世界に蔓延し始めた当初、イタリアのローマにあるサンタチェチ―リア国立音楽院は「すべての東洋人へのレッスン中止」を発表し物議を醸しました。アメリカでは東洋人に対して「コロナ」と罵声を浴びせ暴行する事件も発生しました。日本でも温泉地の箱根で「中国人お断り」と貼り紙を掲げる駄菓子店が登場したり、札幌市でも「中国人入店禁止」の貼り紙を掲げたラーメン店が物議を醸しました。さらに注目すべきはコロナウイルスと命がけで闘う病院関係者さえも忌避する行為が生まれていることです。
 私たちはこの高度に発展した科学を基礎とする社会においてさえ、恐怖にとらわれ差別的言動にはしる人間たちを無知蒙昧の輩として感情的に非難するだけで、無視しておいてはコロナウイルスに対する完全勝利はありません。恐怖が生みだす「心の闇」の正体を明らかにし、それを解消する道筋を明確にすることが大切なのです。
 ダークサイド(暗黒面)に転落するな!

※いつの時代でも、人間は、個人のレベルであれ、その内部と外部に制御しえない「闇=異界」を抱え込んでいた。そのために、私たちの先祖は、こうした異人や妖怪に脅かされたり、それと戦って退治・追放したり、同盟・協調関係をつくりあげるといった、様々な物語を生み出し語り伝えることになったのである。
​​(『絵物語の想像力-異界と日本人』小松和彦)​​



※「心の闇」についてさらに知りたい方は下のリンクをクリックしてください

​​◯2019年10月10日・私たちは人権社会を実現すると称して「憎悪の種」をまいてはいないか

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安倍清明・怨霊を鎮める陰陽師​​​​​​​​

原始から近世の終り頃まで、病気は神仏の怒りや怨み、恨みを残して死んだ者の祟りによるものと考え、ウイルスや細菌が存在するなどと考えていなかった。

陰陽師は占術と呪術を使い祟りを鎮めた。その陰陽師界のスーパースターが平安時代中期に活躍した安倍清明である。
平安時代における天皇・貴族は権力の争奪戦を続けていた。世は謀略と呪詛の時代であり、権力から追われたり、殺された者の怨念が祟りとなって、疫病、飢饉、天災を引き起こしていると考えられていたのだ。
陰陽師の呪術には天文学および統計学、心理学的な要素が幾分か含まれていたが、科学といえるものでなく、迷信と妄想をかき立てるものであった。
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​​3、ウイルスへの恐怖は分断に利用される ​

 14世紀にペスト(黒死病)が流行した時は、疫病の原因が「神の怒り」と信じたキリスト教会では、ユダヤ人が雑居しているからとして1万人以上のユダヤ人を虐殺したという記録が残されています。 
 1918年頃に流行した「スペイン風邪」はアメリカ合衆国の兵士の間で流行しはじめ、人類が遭遇した最初のインフルエンザの大流行(パンデミック)でした。感染者は6億人、全人類の半数もの人びとが「スペイン風邪」に感染しました。世界全体の推定死者数は1700万人から1億人(日本では45万人が死亡)といわれています。この感染地獄ともいえる状態を生み出した背景には、戦争状態下での情報統制、不衛生で密集した兵舎や塹壕、栄養不良があったといわれています。戦争状態が疫病を大流行させたのです。さらに、ウイルスの正体が分からない国々は治療薬がないため、感染者を強制的に隔離し、野戦病院のような大規模な病棟を作り収容するだけでした。
 驚くべきことはアメリカ発であるにもかかわらず、スペインが「スペイン風邪」の発生源であるとされ、長期にわたり世界から偏見を持たれ続けました。そうしたことを知ってかしらいでか、アメリカ大統領トランプ(トランプ)は、今回のコロナウイルスを「中国ウイルス」と名付け「真珠湾攻撃・9.11テロを超える攻撃」として攻撃を強めています。
 ヒトラーによるナチス政権の誕生は「スペイン風邪」によるドイツ国民分断の後遺症から生まれたという説があります。確かにヒトラーは「ユダヤ人はウイルス」だと攻撃してドイツ国民の憎悪を煽り支持を集めたといわれています。
 しかし、私たちは認識しておかねばなりません。ウイルスが社会や国民を分裂させたわけではなく、もともとあったドイツ国民のユダヤ人への偏見、アメリカ国民にある中国共産党への批判、東洋人に対する忌避意識や敵対心が基礎になっていることは言うまでもありません。
 私たちのたたかいはコロナウイルスとのたたかいだけではないようですね。コロナウイルスの恐怖を憎悪と敵意に変えるあらゆる扇動ともたたかう必要があるのです。そのためには人間の脳がどうしたメカニズムで恐怖を発生させ、恐怖が憎悪や敵意に転化していくかを生物的に理解しておく必要があります。なぜなら人間は恐怖から逃れられない習性を持っているので、絶えず憎悪や敵意を克服しなければならないという宿命を背負っているからです。

※私たちは生まれ育つ過程で、自分たちの世界を慣れ親しんでいる既知の領域とそうでない未知の領域に分割するようになる。多くの場合、慣れ親しんでいる領域は、秩序づけられた友好的な世界、つまり『われわれ』として分類できるものの住んでいる世界である。​
​(『絵物語の想像力-異界と日本人』小松和彦)
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「分断と戦争」についてはリンク先の記事も参照してください。
◯2018年09月03日・戦争の引き金―偏見と差別について考えてみよう




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​​​一条戻り橋・人を生き返らせる
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京都市の一条通を流れる堀川に架けられた橋の名称で、古くからあの世とこの世をつなぐ橋である。
この橋のたもとに安倍清明は式神(手下の鬼のこと)を隠していた。式神は様ざまな霊や生物に姿を変え闇に紛れて怨霊の正体を探りだし、清明とともに怨霊を鎮める。
生と死をつなぐ橋があることも面白いが、陰陽道には「泰山府君」(たいざんふくん)という死者を生き返らせる術があり、清明がその術を使い高僧を生き返らせたという説話もあるのだ。
この話を現代に置き換えると清明は医者、式神は看護士さんたちだ。但し、看護師さんたちは鬼ではなく菩薩である。




​4、ウイルスに恐怖する脳は憎悪を生む​
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 恐怖は脳の活動によって生み出されます。脳は恐怖という情動を有害な事態や危険な事態に対して有効に対処することが難しいような場合に生じさせます。例えば、毒蛇に遭遇した時には本能的に恐怖を感じます。その時は憎悪することはありませんが、それが鎌首を持ちあげて襲ってくる姿勢を見せた時、脳の​原始神経システム​が発動し、逃走もしくは闘争反応の引き金が引かれ、逃げるか、反撃するかを瞬時に選択します。
​​ 脳の原始神経システムは「逃げ場のない状態に陥った時」に憎悪感情が理性的感情を抑え込み攻撃に打って出るのです。その瞬間、人間は憎悪の中に「しこり」があるのをはっきり確認できますね。それが敵意なのです。​​
 トランプに扇動された憎悪・敵意は自分たちを苦しめるものを敵と決め、それを排除することでしか心の解放はないと思いこませます。これが積み重なると、中国を孤立化させるだけでなく破滅させることまで望むようになります。その結果、コロナウイルス後の世界では米中対立が激化し、第三次世界大戦が発生という悲劇的な可能性さえも生まれるのです。

※原始神経システムは対象の細かい違いをつかむのは苦手だ。ヘビは危険だとなると、どんなヘビもみな危険とみなしてしまう。(中略)それが憎悪と結びつくと恐ろしい結果を引き起こす。チェチェン紛争でのロシア兵は、戦闘員だけでなくチェチェン人すべてを敵としてみなした。そのために何万人という罪のない男女や子供が虐殺されたのである。​
​ (『人はなぜ憎むのか』ラッシュ・w・ドージアJr・河出書房>​





​​​​正義の味方・閻魔大王(えんまだいおう)
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閻魔は仏教、ヒンドゥー教などでの地獄、冥界の主。冥界の王として死者の生前の罪を裁く神だ。生前の身分・地位、財力は役に立たない。唯一の判断基準はこの世での正しい行い。人間らしい生き方である。道を誤っていれば地獄しかないのだ。
人は必ず死ぬ。死ぬこと自身が怖いのに死ぬと閻魔の前に立たされると考えると、もっと怖い。だから行いを正そうとする。
コロナウイルスを怖いと感じることは悪いことではなく、怖いと感じる自分の心を見つめ、自己自身の本質を発見する機会でもあるのだ。
それが仏教にある「自灯明・法灯明」(釈迦の教え)なのだ。​




​​5、ウイルスに恐怖する脳は異界を生む
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 恐怖が生みだす「心の闇」とは?仏教では心の闇は「無明の闇」といいます。「無明」とは、明かりがなく、暗いということです。「闇」も暗いということですから、暗い心です。心理学では「心の闇」とは人生に対する絶望であり、社会に対する怒りや怨み、異常な快楽への欲望といったものが正体といわれています。
 「心の闇」から生まれ出ずる憎悪と敵意は想像と妄想という二つの認識を生み出します。想像は自己の恐怖の対象を具象化し、現実世界に対応した空想の世界を創り上げます。ウイルスの正体も治療方法の分からない時代においては、ウイルスは異界からの侵入者であり、その姿は西洋では悪魔、東洋では鬼や妖怪として描かれ、人間はそれとたたかう神仏を生み出し、修業により神仏の力を獲得した僧侶や呪術師が活躍します。空想特撮映画もその流れの中にあります。
 妄想は想像と区分するのは難しいですが、例えば墓場に行けば死霊が存在すると信じる者は風が木の葉を揺らすだけで霊魂がいると考え、その姿を想像します。その想像物は自己の生育過程で得た情報や体験、記憶によって創造され、その内容が非現実的であるにもかかわらず、確信が異常に強固で、経験、検証、説得によって訂正することは不可能な状態を指します。
 心理学者の河合隼雄は、恐怖を「人間は自分の人生観、世界観やシステムを持ちながら生きているが、それをどこかで揺り動かすもの」と定義したうえで、「恐怖はない方がいいように見え、ずっとそういう状態が続くと安心ではあるが、死んでいるのと同じである。生きる体験の中には必ず恐怖が入ってくる」と指摘しています。 恐怖とは生と死を実感させる役割を果たし、人間に生きる意義を考えさせる感情のようです。
 恐怖は神仏や異界を生み、人間の精神世界を豊かにする動機となっており、人間の生きる証でもあるようです。

※いつの時代でも、人間は、個人のレベルであれ、その内部と外部に制御しえない「闇=異界」を抱え込んでいた。そのために、私たちの先祖は、こうした異人や妖怪に脅かされたり、それと戦って退治・追放したり、同盟・協調関係をつくりあげるといった、様々な物語を生み出し語り伝えることになったのである。
​​​(『絵物語の想像力-異界と日本人』小松和彦)​​​
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こちらの記事も参照してください。(クリックで開きます)


​​​​​利他の人・緒方 洪庵(おがた こうあん)​​​​​

洪庵は1810年(文化7年)に岡山県で下級武士の子どもとして生まれ、苦労して医師、蘭学者となり、大坂に適塾(大阪大学の前身)を開いた。
その当時、天然痘(ウイルス感染症)に罹った子どもがたくさん亡くなっているのを憂い、佐賀藩が輸入した種痘を手に入れ、切痘をはじめるとともに、多くの医師にそれを広めた人物。
門人は3000人ともいわれ、その中から大村益次郎、福澤諭吉など日本の近代医学や政治・文化に大きな影響を与えた人物が育った。
作家司馬遼太郎は洪庵を「かれは、名を求めず、利を求めなかった。あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。そういう生涯は、はるかな山河のように、実に美しく思えるのである」(『洪庵のたいまつ』)と歴史上の人物の中で最大級の評価をしている。​


​​6、ウイルスへの恐怖心は共同の力に変わる
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 人間が恐怖心を持つことは人間が生存していくうえでは重要な能力の一つですから、恐怖心を無くすことは死なない限りできませんが、恐怖心から生まれる敵意・憎悪を克服する潮流はすでに大きな流れとなっています。 
 コロナウイルスとの戦いで発揮されているのは世界中の科学者と医療従事者および関係研究団体や研究者のグローバルに展開された共同の力です。感染爆発の状況、医療機関の対応、治療方法や治療薬を情報公開し、世界の医療従事者が連帯して戦う姿は都市封鎖という非常事態にもかかわらず、世界の人々の心の絆を強くしています。
 さらに、世界中の人々が他の人に感染させないために長期にわたる「ステイホーム」という前代未聞の苦痛に耐えるという行為を続ける中で、共同の精神的核心ともいえる利他主義を育てています。
 共感(empathy)とは他者の考え方や感じ方を理解しようとすることで、それが正しいと認められなくても、最悪の敵に対しても相手の身になって考えようとすることです。そうした立場でいる限り、困難な状況に陥ったとしても理解や和解の機会は生まれます。脳科学的にいえば、脳の原始神経システム​の発動を高等神経システムにより抑圧し、理性的な働きを強めることになるのです。
 トランプの中国に対する攻撃はコロナウイルスへの恐怖とたたかう世界の共感を断ち切ろうとするもので、共感が切れれば、脳の原始神経システムが発動され、自分の生存を脅かしたり、不利益を与えると感じる他者に対する攻撃が開始されることになるのです。
 いつの時代も、どの国でも人間の本質はあまり変わらないのかもしれません。だからこそ「博愛精神は平常時や平和な時だけ」なんていうことにならないように、非常事態の際の人間性が問われているのではないでしょうか。でも、何もそんなに難しく考えることはありません。ウイルスを憎んで、人を憎まず、ということなのです。


愛については次の記事も参照してください。
◯2018年07月03日・部落差別を最終的に解決するのは人間愛


​7、ウイルスとたたかう共同の力は理性を鍛える
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 共同の本質は自利・利他主義にあります。「一人は万人のために、万人は一人のために」という言葉で表されます。脳科学的に言えば、原始神経システムを高等神経選択により制御することである。それは『スター・ウォーズ』でいえば「闇の力」を理性の力が駆逐するのと同じなのです。
 コロナウイルスは一人の感染が人類全体を危機に陥れるという性質を持っています。それは人間の体内で増殖するだけでなく、変異し、新しい感染を広げるからです。天然痘のように人類がコロナウイルスを完全に死滅させることができない限りたたかいは続いていきます。
 対抗手段として国境を完全に閉鎖し、都市をロックアウトして防ぐとしても長期化すれば経済の崩壊を招き、感染被害をこえる悲惨な社会となるだけであり、トランプのような分離主義が成功するはずはないのです。
 脳科学的にも共通の目標を達成するために他者と手を結ぶと、原始神経システムの潜在意識に作用し、敵対的意識が消えることがわかっており、コロナウイルスに勝利するためには、人間が科学の力を信じ、政府を信頼し、世界が協力し合える共同世界を育てるしかないのです。
 今、未来を担う子どもたちもコロナウイルスの感染防止のためにステイホームし、孤学、孤食、孤独を余儀なくされ、学習と遊びはネットに依存しなくてはならない状態に置かれています。まさに分断状況におかれているのです。こうした状況から言えばコロナウイルスとたたかっているのは大人たちだけではないのです。
 私たちは大人たちは遅れた学力を取り戻すことをすぐに考えますが、今こそ、子どもたちに共同の意味を教えるべき機会が訪れたと考えるべきです。学校のカリキュラムにはない、命がけでたたかう医療従事者の知恵と勇気、利他主義を貫き人類のために貢献した偉人たちの業績、自然と人間の関係などについて、大人と子どもが話し合うべき時間を持つべきなのです。
 確かに基礎学力の遅れは問題です。しかし、子どもたちが共同する力を身に着ければすぐに解決できるはずです。

※人間は助けあって生きているのである。私は人という文字を見るとき、しばしば感動する。ななめの画がたがいに支え合って、構成されているのである。
 そのことでも分かるように、人間は、社会を作って生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。
​(『21世紀に生きる君たちへ』司馬遼太郎)​​




​​​8、ウイルスとたたかう共同の力は人権認識を鍛える​​​

 最後に、この共同という立場から部落差別にも触れておきます。「ネット差別」は現実とはかけ離れた電子世界の中で発生し、消滅しているものです。多くの場合その情報源は他者からの情報(最近では主に人権・同和教育)による認知・記憶を発生源として法的にも実態的にも存在しない「部落民」を妄想して発信しています。 
 「ネット差別」の本質には共同性はなく孤立性しかありません。発信される内容は発信者の生育環境や性格・精神、知識が発信内容を規定することになりますから、簡単に止めるためには徹底した法的規制を行うしかありません。しかし、私たちは冷静であるべきです。すでに彼らは孤立した存在であり、少数者です。ネット社会は人類にとって必要不可欠な存在となっており、ますます発展していくことは間違いありません。そうした未来を見据えると、規制を強化するよりむしろ彼らがそのような「ネット差別」を発信するにいたった経緯を明らかにし、解決策を明確にすることで、ネット社会の進歩に貢献すべきなのです。
 共同は他者との目標の一致がなければなりません。目標が一致すると「被差別者」対「差別者」という区別は必要がなくなり、それを意識する必要もなくなります。さらに、目標を達成するためには情報の共有と現実的な交流と行動が必要となります。
 人権教育の一環としてすでに実態がない部落問題を教えることは「部落民」という妄想(ゴースト)を生み出すことはすでに明らかにしてきました。人権尊重の日本社会を創るために今必要なのはコロナウイルスとたたかう人類の一員であることを自覚し、行動できる人間となることです。

※ネットには毎日数万件数十万件という単位で、「死ね」とか「殺すぞ」という攻撃的な言葉が行き交っています。(中略)もし「呪い」ということの機能が、憎む相手に悪意を放射することによって、その自尊心を傷つけ、生きる意欲を失わせ、ついに死に導くとするならば、ネットに行き交っている言葉は「呪詛」(じゅそ)と呼ぶにふさわしいと私は思います。
​(『現代霊性論』内田樹・釈徹宗)​​
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「ネット差別」については、以下の記事もご覧ください。

ことわざで考える-部落差別の解消の推進に関する法律 「人権条例」は自治体の発行する「同和補助金の誓約書」

​​ことわざで考える-部落差別の解消の推進に関する法律
​​​「人権条例」は自治体の発行する「同和補助金の誓約書」​
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​​◯この法律はいずれ同和対策完全廃止法に化ける​​​

 ほとんどの日本国民の皆さんは部落差別をなくしたいと考えています。そうした願いをこめて宣言法である「部落差別の解消の推進に関する法律」(「推進法」・2016年12月)が成立して3年あまりが経ちました。
 「解放同盟」(同和派)の影響力が強いため、依然として同和対策や同和教育(「解放教育」)を進めている自治体などでは、その永続化を担保するために「推進法」を根拠に「人権条例」制定運動がすすめられていますが、果たしてそれは「推進法」の本来の目的に沿うものなのか?本当に部落問題の解決につながるものなのか?今回は諺(ことわざ)を使い、改めて検証してみましょう。
※「解放同盟」(同和派)とは、神戸の「解放同盟」の皆さんのように、一般対策のもとで市民と共同して自治・まちづくり運動を進める「解放同盟」組織が全国的にも広がっているそうです。そうした組織とは違い同和依存で運動しているという意味で使用しています。

1、「推進法」の本当の狙いは―
「見かけばかりの空大名」
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               (外見は立派だけど中身がない)​​
 「部落差別はある」と言いながら、「推進法」には部落差別とは何かを定義した条文がありません。「部落差別はダメだ!」といいながら「部落差別とは何か?」がわからないというのは、信号機がないのに「赤は危険!」と教えるのと同じようなもので、大壮な名称をつけている法律のわりには中身がありません。
 この法律は、かつてのような実態的な部落差別(結婚、就職、居住移転)を解消するものではなく、「ネット差別」という、現実の共同社会とは断絶し、匿名性の高い(運動関係者がなりすまし発信もできる)、発信根拠、動機が不明な「曖昧な差別」を根拠としてつくられたものですから、この法律の掲げる部落差別にはほとんど意味がありません。
​ まさに​​「見かけばかりの空大名」​​ともいうべき法律なのです。​
 しかし、同和特別法が終結してから全国のまともな自治体では同和対策の終結がすすめられ、「解放同盟」(同和派)とその関係団体(人権・同和教育研究協議会など)が衰退していくなかで、「部落差別解消」を掲げる「恒久法」が制定されたことは、いかに中身がないにしても、そうした関係団体を「活気」づける契機になっていることは間違いないようです。

2、「推進法」と「附帯決議」は一体のもの―​
「盾の両面を見よ」
(一面だけを見ず、表裏ともによく観察せよ)​​​
 では本当に「解放同盟」(同和派)を「活気」づけるような法律なのでしょうか? 
 「推進法」には鋭い刃が仕込まれていることを知っておかなければなりません。それは施策を教育・啓発のための相談、教育啓発、実態調査の3つに限定することにより、かつてのような同和対策の継続と復活に歯止めをかけていることです。この刃が振るわれはじめると部落解放運動をめぐる状況は一変することになるはずです。
 「推進法」には衆議院と参議院法務委員会附帯決議があります。この「附帯決議」は判例や過去の審議会文書を踏まえていることは明白です。その内容は「過去の民間運動団体の行き過ぎた言動等、部落差別の解消を阻害していた要因」「当該教育及び啓発により新たな差別を生むことがないように留意」「その内容、手法等に配慮」など、これまでの判例や特別対策当時の審議会意見具申、政府文書にもとづいています。
 あのだめな文科省でさえ、「推進法」と「附帯決議」は一体のものであるという「法及び附帯決議」の周知を通知し、附帯決議を省略せずに法の趣旨は正しく理解するように指導しています。
 まさに「盾の両面を見よ」です。

3、同和対策の基本原則を理解しておこう―​「ひとつ間違えば一里も狂う」(わずかな失敗でも、それが原因で大きな間違いになる)​
 「推進法」を理解する上で重要なので、これまでの同和特別法の基本的性格や判例、当時の審議会意見具申、政府文書が明確にしている基本原則は次の通りなので、よく理解しておきましょう。

①同和特別法(時限法)は事業推進のために「対象地域」「同和地区」を特定しましたが、法の終結により解消されています。また、日本国憲法および一般法規に照らしても「対象地域」「同和地区」を特定する法的根拠は存在していません。
②同じ日本人を区別するような施策は日本国憲法および社会的道義に照らして絶対あってはなりません。
③同和特別法が終結した時点において自治体の行う「対象地域」「同和地区」などを対象とする同和対策は経過措置は別として、すべて違法となります。
当然ながら区別するような行政施策は立案どころか実施することも違法となります。
 以上の原則を理解していれば実態調査などは到底できるはずありません。強行すれば自治・コミュニティの破壊どころか日本国民の分断につながります。もはや犯罪行為です。
​ まさに「ひとつ間違えば一里も狂う」ことになります。​

4、「推進法」が禁止していることは―​
​「仏の顔も三度」​

       (いかに柔和な人も無礼が重なれば怒る)​​
 法的根拠が無いにもかかわらず、全国的に見ると同和対策(個人施策、運動団体への補助金・委託事業、同和教育)などを継続している「違法同和自治体」が数多く存在しています。これらの自治体は前記の同和対策の基本原則を理解していないか、無視しているかのどちらかです。
 「推進法」をよく議論し、理解され、自らの「違法行為」を深く反省されたうえで、早期に同和対策を終結することをおすすめします。
 自治体に対して「推進法」が厳しく戒めていることは以下の通りです。
①自治体は法的・社会的根拠が存在していない同和対策の継続および復活をしてはならない。
②自治体は「確認・糾弾」などの行き過ぎた言動等が部落差別の解消を阻害する要因であることを認識し、行政の主体性を確立しなければならない。
③自治体は「解放同盟」(同和派)の非科学的な理論に追随する教育・啓発を進めてはならない。
 当然ながら、この「推進法」は自治体の手足を縛るためだけでなく、「解放同盟」(同和派)の行き過ぎた運動行為やそれに追随する議会議員の態度をも否定しているものと理解すべきです。
 いつまでも違法かつ社会的道義に反する同和対策を継続していると、国民の大きな怒りをかうことになります。
​ まさに「仏の顔も三度」です。​
※詳しくは本ブログ『​新法と部落問題-神戸市の同和対策終結の教訓から​』(2017・4・28)をお読みください。

5、同和補助金・委託事業費に依存する部落解放運動―「人のふんどしで相撲をとる」​(他人を利用して自分の利益にしてしまうこと)​
 同和対策は部落解放運動団体(「解放団体」)を支えてきました。なぜなら、もともと部落解放運動は差別事象に対応する「一揆主義的傾向」の強い運動であり、政党や宗教団体、労働組合のような組織性と自主財政力のある組織ではありませんでした。
 同和特別法が制定され、自治体は同和対策を円滑に推進するための地域の協力団体として「解放団体」に運動補助金や委託事業費を支出しました。そうした財政支援を基礎に「解放団体」は専従体制を確立し、組織を肥大化させてきたという経過があります。勿論、中には自主財政で運動をしている組織もありましたが、それは極めて少ないようです。 
 財政的にいえば、まさに「人のふんどしで相撲をとる」のような状態にあったのです。
 同和特別法終結以後は、
①同和対策の終結が全国的に進み、法的対象とされていた「同和地区」「同和地区住民」が消滅するとともに、その基礎となっていた「部落民」「被差別者」という「身分的連帯」が急速に希薄化している。
②同和対策推進協力金である補助金や委託事業費の削減や打ち切りが進む中、専従体制が維持できなくなり、組織の解散・衰退が進んでいる。
③同和対策で獲得した「部落差別判定者」としての「権威」や「社会的地位」が瓦解しはじめ、「解放団体」の社会的価値が急速に低下している。
 ​こうした中での「推進法」はまさに天から垂れ下がってきた金色に輝くクモの糸のようなものなのです。​



◯「人権条例」制定運動は「解放同盟」(同和派)の便乗商法のようなもの​​​​

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1、「人権条例」は必要なし―「笛吹けど踊らず」
       ​
(いかにおだてても人が応じないこと)​​​​​
 「人権条例」制定運動は「解放同盟」(同和派)の強い福岡、大分などの九州地方を中心に広がりを見せているようですが、全国的には「笛吹けども踊らず」という状況のようです。
 その背景には次のような状態が生まれているからです。
①同和特別法(33年間)に基づき、国費を約15兆円も費やした同和対策が人権擁護施策推進法(1997年3月末)をもって終結し、それ以後、同和対策を完全に終結する自治体が広がっているため、そうした自治体では「人権条例」制定が受け入れがたい状態にあること。
②すべての自治体が人権教育・啓発推進法(2000年12月)に基づき、人権教育・啓発基本計画を策定し、教育・啓発を推進しているため、新法の根幹である相談・教育啓発計画を新たに策定する必要がないこと。
③法的に「対象地域」「同和地区」や「部落」「部落民」が完全に否定されているために、日本国民を分断する実態調査の実施が不可能なこと。
​​ 以上のように「人権条例」の制定運動が「​笛吹けど踊らず​」になるのは当然なのです。​​

​​​​2、「人権条例」は積立するものではない​​「​屋上屋を架す」            ​​​​(いくらしても効果はないこと)​​​
 今回「人権条例」を制定した自治体を見ると、かつて「解放同盟」(同和派)主導で進められた「部落差別撤廃条例」(1994年前後)を制定した自治体とほぼ重なります。さらに、その後も多くの自治体では「人権尊重のまちづくり条例」などが制定され、条例文に「部落差別」という文言があるかどうかは別として、ひとつの自治体に同趣旨の「人権条例」が重なり合うという状態になっています。
 こうした自治体における「人権条例」制定運動の目的は次の通りです。
①「解放同盟」(同和派)が唯一の「部落差別判定者」であることを行政に認定させ、社会的権威・地位を保全すること。
②唯一の「部落差別判定者」であることを行政に認定させることにより、引き続き同和補助金・委託事業費、人権・同和教育推進関連経費の継続的支出を担保すること。
③自治体との癒着を維持し、運動と組織の永久化をはかること。
​​ 以上のように「人権条例」は​「屋上屋を架す」​​だけで、部落差別の解消とは全く無縁のものですが、「解放同盟」(同和派)にとっては命の綱であることを理解しておきましょう。​​

​​​​​​​3、自治体及び議員の皆様へ―「結構、結構はあほうのうち」      (自分の意見をもたず、従順なのはあほうと同じ)​
 「人権条例」が重なり合う状態にある自治体は「解放同盟」(同和派)の言いなり自治体がほとんどです。こうした自治体に対してあえて厳しい意見を言わせていただくことにします。
①法的に「対象地域」「同和地区」や「部落」「部落民」も存在しない、部落差別も生起していないのに、誰が書いて発信しているかわからない「ネット差別」を根拠として「人権条例」をつくるということに矛盾を感じないというのは無責任の極みである。
②部落差別の解消には無駄で効果がないことと知りながら、「人権条例」を制定しておけば、「解放同盟」(同和派)と「もめなくてすむ」と考えているとしたら、それは面従腹背という卑劣な態度で、「解放同盟」(同和派)を侮蔑していることになる。
③本気で部落差別をなくす為に努力してきた自治体は、部落差別の定義、部落問題解決の方法、現状を正確に把握していますから、運動団体のいいなりに「人権条例」は作ることはありません。「部落差別」の解消に役に立たない要求は拒否し、反対すべきである。
​ 主体性のない態度は「結構、結構はあほうのうち」というもので、いずれ当該自治体だけでなく、そこに住む住民たちもそう思われるようになるかもしれませんから気を付けてください。​

​​​​4、住民はもう意図を見抜いている―「杖を挙げて犬を呼ぶ​​    (害する意図があれば人はよりつかないこと)​
 前記の九州地方では「解放同盟」(同和派)がのさばっているようですね。福岡県の飯塚市では「解放同盟」に人件費を中心に毎年4億2千万円も補助したり、「解放同盟」の設立した「NPO人権ネットいいづか」にはのべ4億5000万円の人権啓発事業委託をおこなっているそうです。こうした状況は程度の差はあれ、九州全域の自治体にみられる状況のようで、まさに「同和は金づる」。「人権条例」は自治体の発行する「補助金の誓約書」のようなものなのです。
 「人権条例」の背後には「解放同盟」(同和派)がその利権を維持していくために地位を保全しようとする意図があることは明白です。こうした意図が見え見えになってくれば、当該住民は部落解放運動だけでなく人権教育・啓発に対しても拒否意識を持つことになります。
​ こんな「人権条例」は「部落差別」解消どころか信用もされない「杖を挙げて犬を呼ぶ」代物になるのです。​

​​​​5、もうおしまいだ―「鳥のまさに死せんとするその鳴くや哀し」​​        (終わる時は騒がしいが悲しいということ)​
 国の同和特別法が終結して以後、多くの場合「人権条例」は「同和は金づる」「人権条例」は自治体の発行する「補助金の誓約書」のようなものになっているようです。しかし、どう考えても「推進法」のような部落差別に関する法律はこれが最後。よって「解放同盟」(同和派)の「人権条例」制定運動も最後になりそうです。それゆえに必死で運動を進めているようです。
​ まさに「鳥のまさに死せんとするその鳴くや哀し」という状況にあたるといえます。​
 



​​​◯「推進法」を根拠に同和対策の完全終結を​​​

1、「ネット差別」を放置するな―​​「根がなくとも花は咲く」​​​
         (事実無根のことでも一時は話題になる)​​
 「推進法」制定の根拠となったのは「ネット部落差別」です。部落差別に関する書き込みについては部落問題の基本的性格に関する基礎知識と社会的常識さえあれば影響を受ける人はほとんどいないものと考えますが、新型コロナウイルスのデマのように放置すれば一時的にせよ混乱を招く危険性がありますので、絶えず正しい情報を発信することを怠ってはいけません。
 「推進法」制定の主な契機となった「ネット部落差別」の書き込みをよく読んでみると、「部落問題」に対する無知蒙昧から生まれる「古典的偏見」が原因というより、格差社会における疎外感・孤立感・人間不信と、「解放同盟」(同和派)の運動行為、特権的な同和対策に対する怒りや不満が結合して発信されているものが多いようです。
 「地名総鑑」をネットにアップして「してやったり」とほくそ笑んでいる人間を想像すると腹が立つというより気分が悪くなります。やがてこうした記事は、他の「ヘイト・スピーチ」と一まとめにされ、言論・表現の自由から逸脱した社会犯罪として、権力の取り締まりの対象になるのではないかと危惧せざるをえません。実際に自治体によるプロバイダ事業者への削除要請は増加し、警察庁のサイバー犯罪対策課への取り締まり要請も増加しているそうです。
​ 「推進法」では無理となれば、「ネット社会」が「ネット差別」を根拠に国家権力により規制されることになるでしょう。私たちは「ネット社会」の言論・表現の自由を守るためには、自治体に「差別書き込み」の削除を求めることよりも、正しい知識・情報の発信をすすめ、デマや誤りが受け入れられない状況をつくることが大切であると考えます。

2、附帯決議の完全実施こそ近道―「将を射んとするものはまず馬を射よ」(ものごとをなすにあたっては、まず根本に注目せよ)​
 「推進法」は法的に「部落差別」「部落民」の規定がないという致命的欠陥があることは明白ですが、同時に「人権条例」を制定すべき根拠もありません。むしろ附帯決議と一体的に理解すれば「人権条例」の制定などはありえず、むしろ「推進法」を「部落差別」の実態と合わせて正しく理解すれば「解放同盟」(同和派)を温存する同和対策を廃止することに重点が置かれていることは明白です。
 「人権条例」制定反対運動は大切ですが、それ自身は本丸をせめ落とす運動ではありません。「推進法」の本旨を国民に訴え、「解放同盟」(同和派)と自治体の癒着による違法な同和対策を終結させることが緊急の課題です。そのためには自治体の同和関連施策を附帯決議に基づき精査し、当該自治体の住民に暴露し、全住民的議論を巻き起こすことです。

​​​※この世のもので最も公平に配分されているのは良識である。​​
                ​(デカルト『方法序説』)​

3、「部落タブー」は無責任だ―「傍観するものはつまびらかなり」​​(利害の外にいるもののほうがものごとの道理がよくわかるはず)​
​ 「違法同和自治体」の住民は「推進法」の指摘する違法な同和対策の実態についてはほとんど知りません。その背景には日本のマスコミおよび一部の学者・研究者の中に「部落」「解放同盟」をタブー(触れてはならないこと)にする傾向が強く存在し、正しい報道や批判がなされてないことにも原因があります。​
 タブーの根源には、それを破ると不利益を被る、危害を加えられるなど、「こわい目に」に合うという恐怖心が存在します。暴力的「確認・糾弾」は別として、民主社会においては部落差別に限らず差別的言動が強い抗議や批判を受けることは当然のことであり、それを「こわい」と感じるのは自分の内心に贖罪感があるからで、本当は「部落」が「こわい」のではなく自分の持っている偏見が「こわい」のです。この「こわい」という言葉は、かつてのようなストレートな侮蔑語に取って代わる隠語というべきもので「部落民」を排除する言葉だといえます。
 日本の人口比からいえば「部落民」は0.75%(892,751人・1993年政府調査)にすぎず極めて少数。日常的に「部落民」と接触する機会は少ないはず、直接的に「こわい」という体験をした人は少ないはず、さらに、その「部落民」も日本国民の無知蒙昧な偏見が解消される中で消えつつあります。
​ 「こわい」という認識は実体験よりも伝承によって盛られ、現実から切り離され異常にイメージ化(ゴースト)されて流布されてきたものです。「ネット」に掲載されている今は存在しない劣悪な「部落」の写真などはその典型です。そして、このタブーは「解放同盟」(同和派)に対する批判を抑制する防波堤の役割も果たしていることも理解しておく必要があります。​
 いつまでも機械的にタブーとして発信をつづけるマスコミおよび一部の学者・研究者たちの役割は誠に失礼ながら百害あって一利なしの存在となっていますので反省を。
 国民として同和対策の現状を調査し、その内容をSNSで公開し、国民の問題として知ることはなんら問題ではありません。自らの納付した税金の使い道をチェックし、SNSに公開し、必要な改善を求めることは当然のことです。
 ​知る。伝えることが現実を変えるのです。​

※隠語(いんご、Jargon)とは、ある特定の専門家や仲間内だけで通じる言葉や言い回しや専門用語のこと。外部に秘密がもれないようにしたり、仲間意識を高めたりするために使われる。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

※詳しくは本ブログ『消えゆく部落民―心のゴースト③』(2016・1・30)をお読みください。​

​​4、最後に​​
 以上のように「推進法」の本質は「同和対策終結推進法」ですが、一部には「推進法」を「部落差別永久化・固定化法」という主張があるようです。これは「推進法」を根拠にして同和対策を国民的運動で廃止するという運動に水を指すことになりますから、そろそろやめるべきであると考えます。 
 法文の中に「部落差別」という文言があるために、それを契機にして「人権条例」制定運動が起こっているとしても、それは「解放同盟」(同和派)の解釈であり、部落差別を「永久化・固定化」とは質を異にするするものです。
 本来、部落差別は実態概念であり、差別事象が発生してはじめて差別となりますから、「推進法」によって部落差別が復活する、多発するという主張するためには根拠が必要です。
 現代における部落差別は封建社会の身分イデオロギーの残滓から派生したものです。人民の民主主義運動の発展と日本国憲法に基づく基本的人権を基調とする民主社会が定着するとともに、封建的な社会関係・身分イデオロギーが解消する中で、実態的にも消滅していくものなのです。
​ 認識論からいえば、部落差別は「部落」に対する無知蒙昧な非科学的認識が科学的認識に置き換わることにより解消してきたものであり、一旦獲得した科学的認識は「部落差別」という文言があるだけでは基本的に「ひっくり返る」ことはないということです。このことは「意識は意識された存在以外のなにものかでありうるためしはなく、そして人間たちの存在とは彼らの現実的生活過程のことである」(カール・マルクス『フォイエルバッハ序論』大月書店)が指摘しているとおりであり、現代の心理学や脳科学の到達点から見てもこの見解は正しい認識なのです。ましてや、法律の目的は「部落差別の解消」であり、附帯決議まである以上、そうした主張には説得力がありません。​
 また、運動論的な観点からいえば、「推進法」が「部落差別」を「永久化・固定化」するというならば、「人権条例」よりも部落問題の解決には決定的な障害となり、「推進法」廃止運動を主たる運動目的に掲げてたたかわなければならなくなります。そうした運動が国民的支持がえられるかどうか冷静に考えて見る必要があります。
※詳しくは本ブログ『残念ながら「部落差別解消推進法」は成立してしまいました』(2017・2・2)の参照を。

※参考文献 『ことわざ名言事典』創元社編
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