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消えゆく「部落民」―心のゴースト⑦ ―コロナウイルスの恐怖から共同する社会へ-


消えゆく「部落民」―心のゴースト⑦

​―コロナウイルスの恐怖から共同する社会へ―​​​​​​


 はじめに
 新型コロナウイルスの感染の勢いが衰えてきたようです。それに合わせるように、「日本の感染者数や死者数は世界に比べて劇的に少ない」「政府の感染症対策が成功したからだ」などと、御用政治評論家や御用感染症の学者・専門家たちから提灯発言が出はじめています。​
 こうした評価はコロナウイルス知識のほとんどない私でも間違いであると断言できます。その理由は以下の通りです。
①日本列島は東西に長く、列島のど真ん中を2000m、3000m級の山脈が縦断しており、冬から春にかけて日本海側から北西の季節風が吹く、風は高い山脈を越え太平洋側に吹き降ろす。家の外に出るといつも風があるから、コロナウイルスは街中に長く滞留することができない。実際に太平洋側、日本海側に接した県では感染者数は極めて少ない。
②日本は四方を海に囲まれているので、港と空港をシャットアウトすれば、他国からの感染者は完全に入国できなくなる。
③日本人は握手や抱擁(ハグ)などの習慣がなく、日常的に他人との濃厚接触の機会が西欧人に比べて極めて少ない。
④日本人は古来より手洗いうがいの効用を認知し、日常的に行われてきた。また、マスクは毎年花粉症やインフルエンザ流行期には使用されており、着用に抵抗感がなくまたたくまに広がった。
 以上のような日本の地理的環境と生活文化、習慣・習俗を踏まえて考えると、密室状態になる飲食店・ライブハウス、感染者が通院・入院せざるをえない病院などにおいてクラスターが発生したとしてもパンデミックにはなりにくい有利な条件があったのです。
​ この上に、パンデミックが先行した中国や韓国、西欧のコロナ対策の教訓を踏まえて対策を講じていれば、日本の感染者および死者数は抑えられたはずです。​無能な安倍政権のコロナ対策が評価される根拠は全くないのです。​​
​ 「のど元過ぎれば熱さ忘れる」で、日本国民がこれ以上安倍政権を甘やかし続けると日本は本当に滅びるかもしれませんよ。​




​​​​​​​​​​​​ゴジラは地球の守護神​​​​​​

ゴジラは、日本の東宝が1954年(昭和29年)に公開した特撮怪獣映画『ゴジラ』である。当時社会問題となっていたビキニ環礁の核実験に着想を得て製作した。身長50メートルの怪獣ゴジラは「核の落とし子」「人間が生み出した恐怖の象徴」として描かれた。核兵器に対する恐怖を具象化したものであった。

ハリウッド製作のゴジラでは核兵器に対する恐怖は消えている。むしろ「必要なら核兵器を使うぞ」というアメリカらしい核兵器肯定論が込められている。
ハリウッド製ゴジラは地球の守護神となり、地球環境を破壊する侵略者を敵にしている。
申し訳ないが日本製ゴジラに比べると人間の恐怖心が投影されていないために浅はかな怪獣アクション映画になっている。​​​
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​​1、ウイルスが本当の地球の支配者かもしれない​

 最近、ハリウッドが制作したゴジラは地球の守り神として、宇宙から侵略してきたキングギドラとたたかって勝利する。地球の真の支配者はゴジラだったというお話しでした。映画は「ゴジラの怒りが人間に向かってきたら....」と不気味な予感を観客に与えて終わります。
 このゴジラ映画と新型コロナウイルス(コロナウイルス)の感染爆発を重ねてみると、欲望を進化させ過ぎて怪物のようになり果てた人間による地球環境と生態系の破壊を食い止めるために、地球の支配者であるコロナウイルスが次々と人間に攻撃をしかけてきているのではないかと考えることもできるのだ。
 実際にこれまでの流行経緯を見ると、環境の破壊が深刻化し、気候変動が世界的に大きな問題になるのに並行するように、サーズ(SARS)が2002年11月から2003年7月にかけて流行し、続いてマーズ(MERS)が2012年9月からはじまり、2015年5月に韓国で大流行し、さらに中国へと拡大し、数多くの感染者と死者を出しているのです。しかも、マーズは今もなお収束していず、2020年に入ってもサウジアラビアやアラブ首長国連邦でも発生しているのです。
 勿論、環境破壊とコロナウイルス発生の因果関係は未だ明確ではありませんから、こうした空想が生まれてくるのは怪獣やSF映画が空想特撮映画(今はCG映画)と呼ばれた時代から生きてきた人間が、長い緊急非常態宣言下で「ステイホーム」を強いられている抑圧感の中で生まれる「妄想」だと笑ってお許しいただきたい。


※悪霊の仕業とされた災厄を除く儀礼には、それぞれにふさわしい物語がつねに作り出されたはずである。おびただしい物語の多くが語りだされては、すぐに人々の記憶から消え去っていったのである。​
​​『絵物語の想像力-異界と日本人』小松和彦)​​





​​​​​​​​​​​​ダークサイド(暗黒面)に転落するな​​​​​​

『スター・ウォーズ』の悪役ダース・ベイダーは「ダークサイド」(暗黒面)に転落したジェダイの騎士という設定ですね。ダース・ベイダーは幼い時に愛する母親を殺され、その憎悪の種から暗黒面に転落し、暗黒面の統率者の配下として帝国軍の最高司令官になる。
一方には、「フォ―スの力」(理性)を信念とするジェダイの騎士団が存在し、帝国軍の統率者が支配する宇宙を理性に基づく共和国軍が取り返すためにたたかうという物語である。
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2、ウイルスは人類の「心の闇」に入りこむ
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 人類はこの10年の間に次々とコロナウイルスの攻撃を受け続けてきました。その最前線でたたかい、完全勝利とは言わないまでもコロナウイルスを壊滅に追い込みつつあるのが、電子顕微鏡、遺伝子解析、IT(人口知能)など、最先端科学技術に裏付けられた防疫・治療方法、感染の恐怖とたたかい未知のウイルスと命をかけて戦う医療従事者、ウイルス研究機関と製薬会社の共同による特効薬やワクチンの開発を進める科学者たちです。
 100年前に流行した「スペイン風邪」の時代に比べて、感染の広がり、感染者の数や死亡者数が各段に減少しているのはこの科学の力と言えるのです。しかし、コロナウイルスに対する無知は生物的な死への恐怖だけでなく、人間の「心の闇」に滑り込み様々な差別を発生させています。 
 コロナウイルスが世界に蔓延し始めた当初、イタリアのローマにあるサンタチェチ―リア国立音楽院は「すべての東洋人へのレッスン中止」を発表し物議を醸しました。アメリカでは東洋人に対して「コロナ」と罵声を浴びせ暴行する事件も発生しました。日本でも温泉地の箱根で「中国人お断り」と貼り紙を掲げる駄菓子店が登場したり、札幌市でも「中国人入店禁止」の貼り紙を掲げたラーメン店が物議を醸しました。さらに注目すべきはコロナウイルスと命がけで闘う病院関係者さえも忌避する行為が生まれていることです。
 私たちはこの高度に発展した科学を基礎とする社会においてさえ、恐怖にとらわれ差別的言動にはしる人間たちを無知蒙昧の輩として感情的に非難するだけで、無視しておいてはコロナウイルスに対する完全勝利はありません。恐怖が生みだす「心の闇」の正体を明らかにし、それを解消する道筋を明確にすることが大切なのです。
 ダークサイド(暗黒面)に転落するな!

※いつの時代でも、人間は、個人のレベルであれ、その内部と外部に制御しえない「闇=異界」を抱え込んでいた。そのために、私たちの先祖は、こうした異人や妖怪に脅かされたり、それと戦って退治・追放したり、同盟・協調関係をつくりあげるといった、様々な物語を生み出し語り伝えることになったのである。
​​(『絵物語の想像力-異界と日本人』小松和彦)​​



※「心の闇」についてさらに知りたい方は下のリンクをクリックしてください

​​◯2019年10月10日・私たちは人権社会を実現すると称して「憎悪の種」をまいてはいないか

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安倍清明・怨霊を鎮める陰陽師​​​​​​​​

原始から近世の終り頃まで、病気は神仏の怒りや怨み、恨みを残して死んだ者の祟りによるものと考え、ウイルスや細菌が存在するなどと考えていなかった。

陰陽師は占術と呪術を使い祟りを鎮めた。その陰陽師界のスーパースターが平安時代中期に活躍した安倍清明である。
平安時代における天皇・貴族は権力の争奪戦を続けていた。世は謀略と呪詛の時代であり、権力から追われたり、殺された者の怨念が祟りとなって、疫病、飢饉、天災を引き起こしていると考えられていたのだ。
陰陽師の呪術には天文学および統計学、心理学的な要素が幾分か含まれていたが、科学といえるものでなく、迷信と妄想をかき立てるものであった。
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​​3、ウイルスへの恐怖は分断に利用される ​

 14世紀にペスト(黒死病)が流行した時は、疫病の原因が「神の怒り」と信じたキリスト教会では、ユダヤ人が雑居しているからとして1万人以上のユダヤ人を虐殺したという記録が残されています。 
 1918年頃に流行した「スペイン風邪」はアメリカ合衆国の兵士の間で流行しはじめ、人類が遭遇した最初のインフルエンザの大流行(パンデミック)でした。感染者は6億人、全人類の半数もの人びとが「スペイン風邪」に感染しました。世界全体の推定死者数は1700万人から1億人(日本では45万人が死亡)といわれています。この感染地獄ともいえる状態を生み出した背景には、戦争状態下での情報統制、不衛生で密集した兵舎や塹壕、栄養不良があったといわれています。戦争状態が疫病を大流行させたのです。さらに、ウイルスの正体が分からない国々は治療薬がないため、感染者を強制的に隔離し、野戦病院のような大規模な病棟を作り収容するだけでした。
 驚くべきことはアメリカ発であるにもかかわらず、スペインが「スペイン風邪」の発生源であるとされ、長期にわたり世界から偏見を持たれ続けました。そうしたことを知ってかしらいでか、アメリカ大統領トランプ(トランプ)は、今回のコロナウイルスを「中国ウイルス」と名付け「真珠湾攻撃・9.11テロを超える攻撃」として攻撃を強めています。
 ヒトラーによるナチス政権の誕生は「スペイン風邪」によるドイツ国民分断の後遺症から生まれたという説があります。確かにヒトラーは「ユダヤ人はウイルス」だと攻撃してドイツ国民の憎悪を煽り支持を集めたといわれています。
 しかし、私たちは認識しておかねばなりません。ウイルスが社会や国民を分裂させたわけではなく、もともとあったドイツ国民のユダヤ人への偏見、アメリカ国民にある中国共産党への批判、東洋人に対する忌避意識や敵対心が基礎になっていることは言うまでもありません。
 私たちのたたかいはコロナウイルスとのたたかいだけではないようですね。コロナウイルスの恐怖を憎悪と敵意に変えるあらゆる扇動ともたたかう必要があるのです。そのためには人間の脳がどうしたメカニズムで恐怖を発生させ、恐怖が憎悪や敵意に転化していくかを生物的に理解しておく必要があります。なぜなら人間は恐怖から逃れられない習性を持っているので、絶えず憎悪や敵意を克服しなければならないという宿命を背負っているからです。

※私たちは生まれ育つ過程で、自分たちの世界を慣れ親しんでいる既知の領域とそうでない未知の領域に分割するようになる。多くの場合、慣れ親しんでいる領域は、秩序づけられた友好的な世界、つまり『われわれ』として分類できるものの住んでいる世界である。​
​(『絵物語の想像力-異界と日本人』小松和彦)
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「分断と戦争」についてはリンク先の記事も参照してください。
◯2018年09月03日・戦争の引き金―偏見と差別について考えてみよう




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​​​一条戻り橋・人を生き返らせる
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京都市の一条通を流れる堀川に架けられた橋の名称で、古くからあの世とこの世をつなぐ橋である。
この橋のたもとに安倍清明は式神(手下の鬼のこと)を隠していた。式神は様ざまな霊や生物に姿を変え闇に紛れて怨霊の正体を探りだし、清明とともに怨霊を鎮める。
生と死をつなぐ橋があることも面白いが、陰陽道には「泰山府君」(たいざんふくん)という死者を生き返らせる術があり、清明がその術を使い高僧を生き返らせたという説話もあるのだ。
この話を現代に置き換えると清明は医者、式神は看護士さんたちだ。但し、看護師さんたちは鬼ではなく菩薩である。




​4、ウイルスに恐怖する脳は憎悪を生む​
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 恐怖は脳の活動によって生み出されます。脳は恐怖という情動を有害な事態や危険な事態に対して有効に対処することが難しいような場合に生じさせます。例えば、毒蛇に遭遇した時には本能的に恐怖を感じます。その時は憎悪することはありませんが、それが鎌首を持ちあげて襲ってくる姿勢を見せた時、脳の​原始神経システム​が発動し、逃走もしくは闘争反応の引き金が引かれ、逃げるか、反撃するかを瞬時に選択します。
​​ 脳の原始神経システムは「逃げ場のない状態に陥った時」に憎悪感情が理性的感情を抑え込み攻撃に打って出るのです。その瞬間、人間は憎悪の中に「しこり」があるのをはっきり確認できますね。それが敵意なのです。​​
 トランプに扇動された憎悪・敵意は自分たちを苦しめるものを敵と決め、それを排除することでしか心の解放はないと思いこませます。これが積み重なると、中国を孤立化させるだけでなく破滅させることまで望むようになります。その結果、コロナウイルス後の世界では米中対立が激化し、第三次世界大戦が発生という悲劇的な可能性さえも生まれるのです。

※原始神経システムは対象の細かい違いをつかむのは苦手だ。ヘビは危険だとなると、どんなヘビもみな危険とみなしてしまう。(中略)それが憎悪と結びつくと恐ろしい結果を引き起こす。チェチェン紛争でのロシア兵は、戦闘員だけでなくチェチェン人すべてを敵としてみなした。そのために何万人という罪のない男女や子供が虐殺されたのである。​
​ (『人はなぜ憎むのか』ラッシュ・w・ドージアJr・河出書房>​





​​​​正義の味方・閻魔大王(えんまだいおう)
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閻魔は仏教、ヒンドゥー教などでの地獄、冥界の主。冥界の王として死者の生前の罪を裁く神だ。生前の身分・地位、財力は役に立たない。唯一の判断基準はこの世での正しい行い。人間らしい生き方である。道を誤っていれば地獄しかないのだ。
人は必ず死ぬ。死ぬこと自身が怖いのに死ぬと閻魔の前に立たされると考えると、もっと怖い。だから行いを正そうとする。
コロナウイルスを怖いと感じることは悪いことではなく、怖いと感じる自分の心を見つめ、自己自身の本質を発見する機会でもあるのだ。
それが仏教にある「自灯明・法灯明」(釈迦の教え)なのだ。​




​​5、ウイルスに恐怖する脳は異界を生む
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 恐怖が生みだす「心の闇」とは?仏教では心の闇は「無明の闇」といいます。「無明」とは、明かりがなく、暗いということです。「闇」も暗いということですから、暗い心です。心理学では「心の闇」とは人生に対する絶望であり、社会に対する怒りや怨み、異常な快楽への欲望といったものが正体といわれています。
 「心の闇」から生まれ出ずる憎悪と敵意は想像と妄想という二つの認識を生み出します。想像は自己の恐怖の対象を具象化し、現実世界に対応した空想の世界を創り上げます。ウイルスの正体も治療方法の分からない時代においては、ウイルスは異界からの侵入者であり、その姿は西洋では悪魔、東洋では鬼や妖怪として描かれ、人間はそれとたたかう神仏を生み出し、修業により神仏の力を獲得した僧侶や呪術師が活躍します。空想特撮映画もその流れの中にあります。
 妄想は想像と区分するのは難しいですが、例えば墓場に行けば死霊が存在すると信じる者は風が木の葉を揺らすだけで霊魂がいると考え、その姿を想像します。その想像物は自己の生育過程で得た情報や体験、記憶によって創造され、その内容が非現実的であるにもかかわらず、確信が異常に強固で、経験、検証、説得によって訂正することは不可能な状態を指します。
 心理学者の河合隼雄は、恐怖を「人間は自分の人生観、世界観やシステムを持ちながら生きているが、それをどこかで揺り動かすもの」と定義したうえで、「恐怖はない方がいいように見え、ずっとそういう状態が続くと安心ではあるが、死んでいるのと同じである。生きる体験の中には必ず恐怖が入ってくる」と指摘しています。 恐怖とは生と死を実感させる役割を果たし、人間に生きる意義を考えさせる感情のようです。
 恐怖は神仏や異界を生み、人間の精神世界を豊かにする動機となっており、人間の生きる証でもあるようです。

※いつの時代でも、人間は、個人のレベルであれ、その内部と外部に制御しえない「闇=異界」を抱え込んでいた。そのために、私たちの先祖は、こうした異人や妖怪に脅かされたり、それと戦って退治・追放したり、同盟・協調関係をつくりあげるといった、様々な物語を生み出し語り伝えることになったのである。
​​​(『絵物語の想像力-異界と日本人』小松和彦)​​​
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こちらの記事も参照してください。(クリックで開きます)


​​​​​利他の人・緒方 洪庵(おがた こうあん)​​​​​

洪庵は1810年(文化7年)に岡山県で下級武士の子どもとして生まれ、苦労して医師、蘭学者となり、大坂に適塾(大阪大学の前身)を開いた。
その当時、天然痘(ウイルス感染症)に罹った子どもがたくさん亡くなっているのを憂い、佐賀藩が輸入した種痘を手に入れ、切痘をはじめるとともに、多くの医師にそれを広めた人物。
門人は3000人ともいわれ、その中から大村益次郎、福澤諭吉など日本の近代医学や政治・文化に大きな影響を与えた人物が育った。
作家司馬遼太郎は洪庵を「かれは、名を求めず、利を求めなかった。あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。そういう生涯は、はるかな山河のように、実に美しく思えるのである」(『洪庵のたいまつ』)と歴史上の人物の中で最大級の評価をしている。​


​​6、ウイルスへの恐怖心は共同の力に変わる
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 人間が恐怖心を持つことは人間が生存していくうえでは重要な能力の一つですから、恐怖心を無くすことは死なない限りできませんが、恐怖心から生まれる敵意・憎悪を克服する潮流はすでに大きな流れとなっています。 
 コロナウイルスとの戦いで発揮されているのは世界中の科学者と医療従事者および関係研究団体や研究者のグローバルに展開された共同の力です。感染爆発の状況、医療機関の対応、治療方法や治療薬を情報公開し、世界の医療従事者が連帯して戦う姿は都市封鎖という非常事態にもかかわらず、世界の人々の心の絆を強くしています。
 さらに、世界中の人々が他の人に感染させないために長期にわたる「ステイホーム」という前代未聞の苦痛に耐えるという行為を続ける中で、共同の精神的核心ともいえる利他主義を育てています。
 共感(empathy)とは他者の考え方や感じ方を理解しようとすることで、それが正しいと認められなくても、最悪の敵に対しても相手の身になって考えようとすることです。そうした立場でいる限り、困難な状況に陥ったとしても理解や和解の機会は生まれます。脳科学的にいえば、脳の原始神経システム​の発動を高等神経システムにより抑圧し、理性的な働きを強めることになるのです。
 トランプの中国に対する攻撃はコロナウイルスへの恐怖とたたかう世界の共感を断ち切ろうとするもので、共感が切れれば、脳の原始神経システムが発動され、自分の生存を脅かしたり、不利益を与えると感じる他者に対する攻撃が開始されることになるのです。
 いつの時代も、どの国でも人間の本質はあまり変わらないのかもしれません。だからこそ「博愛精神は平常時や平和な時だけ」なんていうことにならないように、非常事態の際の人間性が問われているのではないでしょうか。でも、何もそんなに難しく考えることはありません。ウイルスを憎んで、人を憎まず、ということなのです。


愛については次の記事も参照してください。
◯2018年07月03日・部落差別を最終的に解決するのは人間愛


​7、ウイルスとたたかう共同の力は理性を鍛える
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 共同の本質は自利・利他主義にあります。「一人は万人のために、万人は一人のために」という言葉で表されます。脳科学的に言えば、原始神経システムを高等神経選択により制御することである。それは『スター・ウォーズ』でいえば「闇の力」を理性の力が駆逐するのと同じなのです。
 コロナウイルスは一人の感染が人類全体を危機に陥れるという性質を持っています。それは人間の体内で増殖するだけでなく、変異し、新しい感染を広げるからです。天然痘のように人類がコロナウイルスを完全に死滅させることができない限りたたかいは続いていきます。
 対抗手段として国境を完全に閉鎖し、都市をロックアウトして防ぐとしても長期化すれば経済の崩壊を招き、感染被害をこえる悲惨な社会となるだけであり、トランプのような分離主義が成功するはずはないのです。
 脳科学的にも共通の目標を達成するために他者と手を結ぶと、原始神経システムの潜在意識に作用し、敵対的意識が消えることがわかっており、コロナウイルスに勝利するためには、人間が科学の力を信じ、政府を信頼し、世界が協力し合える共同世界を育てるしかないのです。
 今、未来を担う子どもたちもコロナウイルスの感染防止のためにステイホームし、孤学、孤食、孤独を余儀なくされ、学習と遊びはネットに依存しなくてはならない状態に置かれています。まさに分断状況におかれているのです。こうした状況から言えばコロナウイルスとたたかっているのは大人たちだけではないのです。
 私たちは大人たちは遅れた学力を取り戻すことをすぐに考えますが、今こそ、子どもたちに共同の意味を教えるべき機会が訪れたと考えるべきです。学校のカリキュラムにはない、命がけでたたかう医療従事者の知恵と勇気、利他主義を貫き人類のために貢献した偉人たちの業績、自然と人間の関係などについて、大人と子どもが話し合うべき時間を持つべきなのです。
 確かに基礎学力の遅れは問題です。しかし、子どもたちが共同する力を身に着ければすぐに解決できるはずです。

※人間は助けあって生きているのである。私は人という文字を見るとき、しばしば感動する。ななめの画がたがいに支え合って、構成されているのである。
 そのことでも分かるように、人間は、社会を作って生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。
​(『21世紀に生きる君たちへ』司馬遼太郎)​​




​​​8、ウイルスとたたかう共同の力は人権認識を鍛える​​​

 最後に、この共同という立場から部落差別にも触れておきます。「ネット差別」は現実とはかけ離れた電子世界の中で発生し、消滅しているものです。多くの場合その情報源は他者からの情報(最近では主に人権・同和教育)による認知・記憶を発生源として法的にも実態的にも存在しない「部落民」を妄想して発信しています。 
 「ネット差別」の本質には共同性はなく孤立性しかありません。発信される内容は発信者の生育環境や性格・精神、知識が発信内容を規定することになりますから、簡単に止めるためには徹底した法的規制を行うしかありません。しかし、私たちは冷静であるべきです。すでに彼らは孤立した存在であり、少数者です。ネット社会は人類にとって必要不可欠な存在となっており、ますます発展していくことは間違いありません。そうした未来を見据えると、規制を強化するよりむしろ彼らがそのような「ネット差別」を発信するにいたった経緯を明らかにし、解決策を明確にすることで、ネット社会の進歩に貢献すべきなのです。
 共同は他者との目標の一致がなければなりません。目標が一致すると「被差別者」対「差別者」という区別は必要がなくなり、それを意識する必要もなくなります。さらに、目標を達成するためには情報の共有と現実的な交流と行動が必要となります。
 人権教育の一環としてすでに実態がない部落問題を教えることは「部落民」という妄想(ゴースト)を生み出すことはすでに明らかにしてきました。人権尊重の日本社会を創るために今必要なのはコロナウイルスとたたかう人類の一員であることを自覚し、行動できる人間となることです。

※ネットには毎日数万件数十万件という単位で、「死ね」とか「殺すぞ」という攻撃的な言葉が行き交っています。(中略)もし「呪い」ということの機能が、憎む相手に悪意を放射することによって、その自尊心を傷つけ、生きる意欲を失わせ、ついに死に導くとするならば、ネットに行き交っている言葉は「呪詛」(じゅそ)と呼ぶにふさわしいと私は思います。
​(『現代霊性論』内田樹・釈徹宗)​​
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「ネット差別」については、以下の記事もご覧ください。
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ことわざで考える-部落差別の解消の推進に関する法律 「人権条例」は自治体の発行する「同和補助金の誓約書」

​​ことわざで考える-部落差別の解消の推進に関する法律
​​​「人権条例」は自治体の発行する「同和補助金の誓約書」​
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​​◯この法律はいずれ同和対策完全廃止法に化ける​​​

 ほとんどの日本国民の皆さんは部落差別をなくしたいと考えています。そうした願いをこめて宣言法である「部落差別の解消の推進に関する法律」(「推進法」・2016年12月)が成立して3年あまりが経ちました。
 「解放同盟」(同和派)の影響力が強いため、依然として同和対策や同和教育(「解放教育」)を進めている自治体などでは、その永続化を担保するために「推進法」を根拠に「人権条例」制定運動がすすめられていますが、果たしてそれは「推進法」の本来の目的に沿うものなのか?本当に部落問題の解決につながるものなのか?今回は諺(ことわざ)を使い、改めて検証してみましょう。
※「解放同盟」(同和派)とは、神戸の「解放同盟」の皆さんのように、一般対策のもとで市民と共同して自治・まちづくり運動を進める「解放同盟」組織が全国的にも広がっているそうです。そうした組織とは違い同和依存で運動しているという意味で使用しています。

1、「推進法」の本当の狙いは―
「見かけばかりの空大名」
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               (外見は立派だけど中身がない)​​
 「部落差別はある」と言いながら、「推進法」には部落差別とは何かを定義した条文がありません。「部落差別はダメだ!」といいながら「部落差別とは何か?」がわからないというのは、信号機がないのに「赤は危険!」と教えるのと同じようなもので、大壮な名称をつけている法律のわりには中身がありません。
 この法律は、かつてのような実態的な部落差別(結婚、就職、居住移転)を解消するものではなく、「ネット差別」という、現実の共同社会とは断絶し、匿名性の高い(運動関係者がなりすまし発信もできる)、発信根拠、動機が不明な「曖昧な差別」を根拠としてつくられたものですから、この法律の掲げる部落差別にはほとんど意味がありません。
​ まさに​​「見かけばかりの空大名」​​ともいうべき法律なのです。​
 しかし、同和特別法が終結してから全国のまともな自治体では同和対策の終結がすすめられ、「解放同盟」(同和派)とその関係団体(人権・同和教育研究協議会など)が衰退していくなかで、「部落差別解消」を掲げる「恒久法」が制定されたことは、いかに中身がないにしても、そうした関係団体を「活気」づける契機になっていることは間違いないようです。

2、「推進法」と「附帯決議」は一体のもの―​
「盾の両面を見よ」
(一面だけを見ず、表裏ともによく観察せよ)​​​
 では本当に「解放同盟」(同和派)を「活気」づけるような法律なのでしょうか? 
 「推進法」には鋭い刃が仕込まれていることを知っておかなければなりません。それは施策を教育・啓発のための相談、教育啓発、実態調査の3つに限定することにより、かつてのような同和対策の継続と復活に歯止めをかけていることです。この刃が振るわれはじめると部落解放運動をめぐる状況は一変することになるはずです。
 「推進法」には衆議院と参議院法務委員会附帯決議があります。この「附帯決議」は判例や過去の審議会文書を踏まえていることは明白です。その内容は「過去の民間運動団体の行き過ぎた言動等、部落差別の解消を阻害していた要因」「当該教育及び啓発により新たな差別を生むことがないように留意」「その内容、手法等に配慮」など、これまでの判例や特別対策当時の審議会意見具申、政府文書にもとづいています。
 あのだめな文科省でさえ、「推進法」と「附帯決議」は一体のものであるという「法及び附帯決議」の周知を通知し、附帯決議を省略せずに法の趣旨は正しく理解するように指導しています。
 まさに「盾の両面を見よ」です。

3、同和対策の基本原則を理解しておこう―​「ひとつ間違えば一里も狂う」(わずかな失敗でも、それが原因で大きな間違いになる)​
 「推進法」を理解する上で重要なので、これまでの同和特別法の基本的性格や判例、当時の審議会意見具申、政府文書が明確にしている基本原則は次の通りなので、よく理解しておきましょう。

①同和特別法(時限法)は事業推進のために「対象地域」「同和地区」を特定しましたが、法の終結により解消されています。また、日本国憲法および一般法規に照らしても「対象地域」「同和地区」を特定する法的根拠は存在していません。
②同じ日本人を区別するような施策は日本国憲法および社会的道義に照らして絶対あってはなりません。
③同和特別法が終結した時点において自治体の行う「対象地域」「同和地区」などを対象とする同和対策は経過措置は別として、すべて違法となります。
当然ながら区別するような行政施策は立案どころか実施することも違法となります。
 以上の原則を理解していれば実態調査などは到底できるはずありません。強行すれば自治・コミュニティの破壊どころか日本国民の分断につながります。もはや犯罪行為です。
​ まさに「ひとつ間違えば一里も狂う」ことになります。​

4、「推進法」が禁止していることは―​
​「仏の顔も三度」​

       (いかに柔和な人も無礼が重なれば怒る)​​
 法的根拠が無いにもかかわらず、全国的に見ると同和対策(個人施策、運動団体への補助金・委託事業、同和教育)などを継続している「違法同和自治体」が数多く存在しています。これらの自治体は前記の同和対策の基本原則を理解していないか、無視しているかのどちらかです。
 「推進法」をよく議論し、理解され、自らの「違法行為」を深く反省されたうえで、早期に同和対策を終結することをおすすめします。
 自治体に対して「推進法」が厳しく戒めていることは以下の通りです。
①自治体は法的・社会的根拠が存在していない同和対策の継続および復活をしてはならない。
②自治体は「確認・糾弾」などの行き過ぎた言動等が部落差別の解消を阻害する要因であることを認識し、行政の主体性を確立しなければならない。
③自治体は「解放同盟」(同和派)の非科学的な理論に追随する教育・啓発を進めてはならない。
 当然ながら、この「推進法」は自治体の手足を縛るためだけでなく、「解放同盟」(同和派)の行き過ぎた運動行為やそれに追随する議会議員の態度をも否定しているものと理解すべきです。
 いつまでも違法かつ社会的道義に反する同和対策を継続していると、国民の大きな怒りをかうことになります。
​ まさに「仏の顔も三度」です。​
※詳しくは本ブログ『​新法と部落問題-神戸市の同和対策終結の教訓から​』(2017・4・28)をお読みください。

5、同和補助金・委託事業費に依存する部落解放運動―「人のふんどしで相撲をとる」​(他人を利用して自分の利益にしてしまうこと)​
 同和対策は部落解放運動団体(「解放団体」)を支えてきました。なぜなら、もともと部落解放運動は差別事象に対応する「一揆主義的傾向」の強い運動であり、政党や宗教団体、労働組合のような組織性と自主財政力のある組織ではありませんでした。
 同和特別法が制定され、自治体は同和対策を円滑に推進するための地域の協力団体として「解放団体」に運動補助金や委託事業費を支出しました。そうした財政支援を基礎に「解放団体」は専従体制を確立し、組織を肥大化させてきたという経過があります。勿論、中には自主財政で運動をしている組織もありましたが、それは極めて少ないようです。 
 財政的にいえば、まさに「人のふんどしで相撲をとる」のような状態にあったのです。
 同和特別法終結以後は、
①同和対策の終結が全国的に進み、法的対象とされていた「同和地区」「同和地区住民」が消滅するとともに、その基礎となっていた「部落民」「被差別者」という「身分的連帯」が急速に希薄化している。
②同和対策推進協力金である補助金や委託事業費の削減や打ち切りが進む中、専従体制が維持できなくなり、組織の解散・衰退が進んでいる。
③同和対策で獲得した「部落差別判定者」としての「権威」や「社会的地位」が瓦解しはじめ、「解放団体」の社会的価値が急速に低下している。
 ​こうした中での「推進法」はまさに天から垂れ下がってきた金色に輝くクモの糸のようなものなのです。​



◯「人権条例」制定運動は「解放同盟」(同和派)の便乗商法のようなもの​​​​

​​

1、「人権条例」は必要なし―「笛吹けど踊らず」
       ​
(いかにおだてても人が応じないこと)​​​​​
 「人権条例」制定運動は「解放同盟」(同和派)の強い福岡、大分などの九州地方を中心に広がりを見せているようですが、全国的には「笛吹けども踊らず」という状況のようです。
 その背景には次のような状態が生まれているからです。
①同和特別法(33年間)に基づき、国費を約15兆円も費やした同和対策が人権擁護施策推進法(1997年3月末)をもって終結し、それ以後、同和対策を完全に終結する自治体が広がっているため、そうした自治体では「人権条例」制定が受け入れがたい状態にあること。
②すべての自治体が人権教育・啓発推進法(2000年12月)に基づき、人権教育・啓発基本計画を策定し、教育・啓発を推進しているため、新法の根幹である相談・教育啓発計画を新たに策定する必要がないこと。
③法的に「対象地域」「同和地区」や「部落」「部落民」が完全に否定されているために、日本国民を分断する実態調査の実施が不可能なこと。
​​ 以上のように「人権条例」の制定運動が「​笛吹けど踊らず​」になるのは当然なのです。​​

​​​​2、「人権条例」は積立するものではない​​「​屋上屋を架す」            ​​​​(いくらしても効果はないこと)​​​
 今回「人権条例」を制定した自治体を見ると、かつて「解放同盟」(同和派)主導で進められた「部落差別撤廃条例」(1994年前後)を制定した自治体とほぼ重なります。さらに、その後も多くの自治体では「人権尊重のまちづくり条例」などが制定され、条例文に「部落差別」という文言があるかどうかは別として、ひとつの自治体に同趣旨の「人権条例」が重なり合うという状態になっています。
 こうした自治体における「人権条例」制定運動の目的は次の通りです。
①「解放同盟」(同和派)が唯一の「部落差別判定者」であることを行政に認定させ、社会的権威・地位を保全すること。
②唯一の「部落差別判定者」であることを行政に認定させることにより、引き続き同和補助金・委託事業費、人権・同和教育推進関連経費の継続的支出を担保すること。
③自治体との癒着を維持し、運動と組織の永久化をはかること。
​​ 以上のように「人権条例」は​「屋上屋を架す」​​だけで、部落差別の解消とは全く無縁のものですが、「解放同盟」(同和派)にとっては命の綱であることを理解しておきましょう。​​

​​​​​​​3、自治体及び議員の皆様へ―「結構、結構はあほうのうち」      (自分の意見をもたず、従順なのはあほうと同じ)​
 「人権条例」が重なり合う状態にある自治体は「解放同盟」(同和派)の言いなり自治体がほとんどです。こうした自治体に対してあえて厳しい意見を言わせていただくことにします。
①法的に「対象地域」「同和地区」や「部落」「部落民」も存在しない、部落差別も生起していないのに、誰が書いて発信しているかわからない「ネット差別」を根拠として「人権条例」をつくるということに矛盾を感じないというのは無責任の極みである。
②部落差別の解消には無駄で効果がないことと知りながら、「人権条例」を制定しておけば、「解放同盟」(同和派)と「もめなくてすむ」と考えているとしたら、それは面従腹背という卑劣な態度で、「解放同盟」(同和派)を侮蔑していることになる。
③本気で部落差別をなくす為に努力してきた自治体は、部落差別の定義、部落問題解決の方法、現状を正確に把握していますから、運動団体のいいなりに「人権条例」は作ることはありません。「部落差別」の解消に役に立たない要求は拒否し、反対すべきである。
​ 主体性のない態度は「結構、結構はあほうのうち」というもので、いずれ当該自治体だけでなく、そこに住む住民たちもそう思われるようになるかもしれませんから気を付けてください。​

​​​​4、住民はもう意図を見抜いている―「杖を挙げて犬を呼ぶ​​    (害する意図があれば人はよりつかないこと)​
 前記の九州地方では「解放同盟」(同和派)がのさばっているようですね。福岡県の飯塚市では「解放同盟」に人件費を中心に毎年4億2千万円も補助したり、「解放同盟」の設立した「NPO人権ネットいいづか」にはのべ4億5000万円の人権啓発事業委託をおこなっているそうです。こうした状況は程度の差はあれ、九州全域の自治体にみられる状況のようで、まさに「同和は金づる」。「人権条例」は自治体の発行する「補助金の誓約書」のようなものなのです。
 「人権条例」の背後には「解放同盟」(同和派)がその利権を維持していくために地位を保全しようとする意図があることは明白です。こうした意図が見え見えになってくれば、当該住民は部落解放運動だけでなく人権教育・啓発に対しても拒否意識を持つことになります。
​ こんな「人権条例」は「部落差別」解消どころか信用もされない「杖を挙げて犬を呼ぶ」代物になるのです。​

​​​​5、もうおしまいだ―「鳥のまさに死せんとするその鳴くや哀し」​​        (終わる時は騒がしいが悲しいということ)​
 国の同和特別法が終結して以後、多くの場合「人権条例」は「同和は金づる」「人権条例」は自治体の発行する「補助金の誓約書」のようなものになっているようです。しかし、どう考えても「推進法」のような部落差別に関する法律はこれが最後。よって「解放同盟」(同和派)の「人権条例」制定運動も最後になりそうです。それゆえに必死で運動を進めているようです。
​ まさに「鳥のまさに死せんとするその鳴くや哀し」という状況にあたるといえます。​
 



​​​◯「推進法」を根拠に同和対策の完全終結を​​​

1、「ネット差別」を放置するな―​​「根がなくとも花は咲く」​​​
         (事実無根のことでも一時は話題になる)​​
 「推進法」制定の根拠となったのは「ネット部落差別」です。部落差別に関する書き込みについては部落問題の基本的性格に関する基礎知識と社会的常識さえあれば影響を受ける人はほとんどいないものと考えますが、新型コロナウイルスのデマのように放置すれば一時的にせよ混乱を招く危険性がありますので、絶えず正しい情報を発信することを怠ってはいけません。
 「推進法」制定の主な契機となった「ネット部落差別」の書き込みをよく読んでみると、「部落問題」に対する無知蒙昧から生まれる「古典的偏見」が原因というより、格差社会における疎外感・孤立感・人間不信と、「解放同盟」(同和派)の運動行為、特権的な同和対策に対する怒りや不満が結合して発信されているものが多いようです。
 「地名総鑑」をネットにアップして「してやったり」とほくそ笑んでいる人間を想像すると腹が立つというより気分が悪くなります。やがてこうした記事は、他の「ヘイト・スピーチ」と一まとめにされ、言論・表現の自由から逸脱した社会犯罪として、権力の取り締まりの対象になるのではないかと危惧せざるをえません。実際に自治体によるプロバイダ事業者への削除要請は増加し、警察庁のサイバー犯罪対策課への取り締まり要請も増加しているそうです。
​ 「推進法」では無理となれば、「ネット社会」が「ネット差別」を根拠に国家権力により規制されることになるでしょう。私たちは「ネット社会」の言論・表現の自由を守るためには、自治体に「差別書き込み」の削除を求めることよりも、正しい知識・情報の発信をすすめ、デマや誤りが受け入れられない状況をつくることが大切であると考えます。

2、附帯決議の完全実施こそ近道―「将を射んとするものはまず馬を射よ」(ものごとをなすにあたっては、まず根本に注目せよ)​
 「推進法」は法的に「部落差別」「部落民」の規定がないという致命的欠陥があることは明白ですが、同時に「人権条例」を制定すべき根拠もありません。むしろ附帯決議と一体的に理解すれば「人権条例」の制定などはありえず、むしろ「推進法」を「部落差別」の実態と合わせて正しく理解すれば「解放同盟」(同和派)を温存する同和対策を廃止することに重点が置かれていることは明白です。
 「人権条例」制定反対運動は大切ですが、それ自身は本丸をせめ落とす運動ではありません。「推進法」の本旨を国民に訴え、「解放同盟」(同和派)と自治体の癒着による違法な同和対策を終結させることが緊急の課題です。そのためには自治体の同和関連施策を附帯決議に基づき精査し、当該自治体の住民に暴露し、全住民的議論を巻き起こすことです。

​​​※この世のもので最も公平に配分されているのは良識である。​​
                ​(デカルト『方法序説』)​

3、「部落タブー」は無責任だ―「傍観するものはつまびらかなり」​​(利害の外にいるもののほうがものごとの道理がよくわかるはず)​
​ 「違法同和自治体」の住民は「推進法」の指摘する違法な同和対策の実態についてはほとんど知りません。その背景には日本のマスコミおよび一部の学者・研究者の中に「部落」「解放同盟」をタブー(触れてはならないこと)にする傾向が強く存在し、正しい報道や批判がなされてないことにも原因があります。​
 タブーの根源には、それを破ると不利益を被る、危害を加えられるなど、「こわい目に」に合うという恐怖心が存在します。暴力的「確認・糾弾」は別として、民主社会においては部落差別に限らず差別的言動が強い抗議や批判を受けることは当然のことであり、それを「こわい」と感じるのは自分の内心に贖罪感があるからで、本当は「部落」が「こわい」のではなく自分の持っている偏見が「こわい」のです。この「こわい」という言葉は、かつてのようなストレートな侮蔑語に取って代わる隠語というべきもので「部落民」を排除する言葉だといえます。
 日本の人口比からいえば「部落民」は0.75%(892,751人・1993年政府調査)にすぎず極めて少数。日常的に「部落民」と接触する機会は少ないはず、直接的に「こわい」という体験をした人は少ないはず、さらに、その「部落民」も日本国民の無知蒙昧な偏見が解消される中で消えつつあります。
​ 「こわい」という認識は実体験よりも伝承によって盛られ、現実から切り離され異常にイメージ化(ゴースト)されて流布されてきたものです。「ネット」に掲載されている今は存在しない劣悪な「部落」の写真などはその典型です。そして、このタブーは「解放同盟」(同和派)に対する批判を抑制する防波堤の役割も果たしていることも理解しておく必要があります。​
 いつまでも機械的にタブーとして発信をつづけるマスコミおよび一部の学者・研究者たちの役割は誠に失礼ながら百害あって一利なしの存在となっていますので反省を。
 国民として同和対策の現状を調査し、その内容をSNSで公開し、国民の問題として知ることはなんら問題ではありません。自らの納付した税金の使い道をチェックし、SNSに公開し、必要な改善を求めることは当然のことです。
 ​知る。伝えることが現実を変えるのです。​

※隠語(いんご、Jargon)とは、ある特定の専門家や仲間内だけで通じる言葉や言い回しや専門用語のこと。外部に秘密がもれないようにしたり、仲間意識を高めたりするために使われる。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

※詳しくは本ブログ『消えゆく部落民―心のゴースト③』(2016・1・30)をお読みください。​

​​4、最後に​​
 以上のように「推進法」の本質は「同和対策終結推進法」ですが、一部には「推進法」を「部落差別永久化・固定化法」という主張があるようです。これは「推進法」を根拠にして同和対策を国民的運動で廃止するという運動に水を指すことになりますから、そろそろやめるべきであると考えます。 
 法文の中に「部落差別」という文言があるために、それを契機にして「人権条例」制定運動が起こっているとしても、それは「解放同盟」(同和派)の解釈であり、部落差別を「永久化・固定化」とは質を異にするするものです。
 本来、部落差別は実態概念であり、差別事象が発生してはじめて差別となりますから、「推進法」によって部落差別が復活する、多発するという主張するためには根拠が必要です。
 現代における部落差別は封建社会の身分イデオロギーの残滓から派生したものです。人民の民主主義運動の発展と日本国憲法に基づく基本的人権を基調とする民主社会が定着するとともに、封建的な社会関係・身分イデオロギーが解消する中で、実態的にも消滅していくものなのです。
​ 認識論からいえば、部落差別は「部落」に対する無知蒙昧な非科学的認識が科学的認識に置き換わることにより解消してきたものであり、一旦獲得した科学的認識は「部落差別」という文言があるだけでは基本的に「ひっくり返る」ことはないということです。このことは「意識は意識された存在以外のなにものかでありうるためしはなく、そして人間たちの存在とは彼らの現実的生活過程のことである」(カール・マルクス『フォイエルバッハ序論』大月書店)が指摘しているとおりであり、現代の心理学や脳科学の到達点から見てもこの見解は正しい認識なのです。ましてや、法律の目的は「部落差別の解消」であり、附帯決議まである以上、そうした主張には説得力がありません。​
 また、運動論的な観点からいえば、「推進法」が「部落差別」を「永久化・固定化」するというならば、「人権条例」よりも部落問題の解決には決定的な障害となり、「推進法」廃止運動を主たる運動目的に掲げてたたかわなければならなくなります。そうした運動が国民的支持がえられるかどうか冷静に考えて見る必要があります。
※詳しくは本ブログ『残念ながら「部落差別解消推進法」は成立してしまいました』(2017・2・2)の参照を。

※参考文献 『ことわざ名言事典』創元社編
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2020―部落問題を科学し、部落問題を最終的に解決する

2020ー部落問題を科学し、
部落問題を最終的に解決する





 年のはじめです。
 ネットの中には、憎悪や妬(ねた)みや嫉(そね)みのはけ口として書かれているような記事、部落および人権に対する誤認に基づく記事が横行していますね。
 かつてこのような内容は公共の便所など、人目のつかない場所に書かれ、「差別落書き」といわれ器物損壊罪として「取り締まり」の対象とされていましたが、ネットが普及するにつれて「ネット差別」に転化してきました。
 ネットは匿名性が高いうえ発信者が現実の共同社会から切り離された感覚状態に置かれるために、発信する内容が非理性的かつ攻撃的になる傾向が強いといわれています。
 当ブログは「常識」という社会の発展段階において定着した「疑いのない真理」に基づき部落問題を考えるという視点で発信しています。当然ながら、「常識」というものは、社会が経済的・政治的に発展することにより、新しい認識が成長し、それが支配的になれば「疑いのない真理」は書き換えられることになります。ゆえに「常識」は絶えず変化し、発展してきたものなのです。封建社会では「常識」とされていた部落に対する差別的認識も同じ運命をたどってきたのです。
 そうした観点に立ち、本ブログでは歴史・文化、生物・脳科学、社会学、心理学、社会心理学の観点からも現代社会における部落問題の本質を解剖し、「疑いのない真理」=「これが今の常識である」を提起してきました。 
 ​勿論、正しいかどうかはあなたが決めることですよ。​
 本当に部落問題に悩まれている方、部落問題を学習したい方はぜひ一度お読みください。きっと新しい認識の世界が広がることになるでしょう。


















「神戸市教員同僚いじめ問題」から考えてみよう -政治と官僚制度の「劣化」の原因-

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​「神戸市教員同僚いじめ問題」から考えてみよう​
​-政治と官僚制度の「劣化」の原因-​





 はじめに
 国は種々の装置ないし、制度を持っていますね。それを通じて国民を統制しています。その実際の実務を遂行するのは官僚制度ですから、国にとっては必要不可欠なもので、ここが崩れると国は溶解作用を起こします。
​ 「森加計問題」や、安倍首相主催の「桜を見る会」の弁護で登場した高級官僚たちの「忖度」「隠蔽」「虚偽」の姿勢はまさに「劣化」を示しているようで、この国の行き詰まりを感じさせます。すでにお気づきの方もたくさんおられるようですが、その背景にあるものはどうやら「利潤第一主義」で走り続けた資本主義社会の制度疲労、「劣化」があるようです。​


​1、「劣化・1」-神戸市の「教員同僚いじめ問題」​​

 昨年から今年にかけて、「烏の鳴かない日はあっても神戸市の不祥事が報道されない日はない」と揶揄されるほど神戸市職員・教師の不祥事が話題になり、巷では職員・教師は「劣化」しているという批判がよく聞かれるようになりました。
 私たちは神戸市職員とともに苦労して同和対策を全国の自治体に先駆けて終結したという誇りを持っていましたので、この間の状況については失望せざるをえませんが、新たな協働関係を構築していくためには原因の解明が必要と考え、今回は遠慮のない検証をさせていただくことにしました。
 ​「劣化」とは、物理的変化などにより品質や性能が損なわれたりすることで、そのものの価値が相対的に低下する現象を指します。​公務員や教師の品質や性能が低下したというのですから誠に厳しい批判ですが、神戸市職員労働組合の「ヤミ専従問題」、神戸市垂水区で女子中学3年生が自殺する事件が発生し、当時の市教育委員会の担当者が校長を指導し、自殺直後に同級生から聞き取ったいじめを裏付けるメモを破棄し、自殺といじめの真相究明を困難にした問題、そして、今回の「教員同僚いじめ問題」などを見ると、「劣化」と批判されても言い訳はできません。
 神戸市職員・教師の皆さんがこうした批判を聞けば、「劣化は一部にすぎない」という反論をするでしょうが、こうした問題は突発的に発生するような性質の問題ではありません。現場で日常的に生起していたはず、それを関係者が認知しながら、放置もしくはうやむやにしていたことから重大化し、表面化したものであると考えるのが妥当です。 
 ​市民の意見や社会的ルールを無視して、神戸市職員・教師の体面や利益を優先する。それが「劣化」なのです。​

※記憶力しか持ってない人間は、足し算しかできない人間と同じだ。​
(中島敦『中島敦全集(第2巻)』筑摩書房)






​2、「劣化・2」-萩生田光一・文部科学相の「身の丈」発言​​

 ​​「劣化」は神戸市の問題だけではないようです。​​ 
 2020年度から始まる大学入学共通テストでの英語民間試験について、「自分の身の丈に合わせて頑張って」という萩生田光一・文部科学相の発言が、教育界のみならず社会全体に波紋を広げました。 
​ あの加計学園問題で疑惑の中心人物であった萩生田さんが、よりにもよって文部科学相になったことに驚きました。さらに、受験生が「生まれ」によって「教育格差」を強いられている現実を是認したうえで、それを本人の志・能力・努力によって乗り越えろと言うのを聞いて強い絶望感に襲われました。​
​ 当然ながら国民の批判を受けて発言を撤回、大学入学共通テストでの英語民間試験を見送らざるをえなくなりました。それによって、マスメディアの批判は鎮静化しました。しかし、私たち「貧乏人団体」は「身の丈」という言葉には敏感です。心が痛みますから到底看過できません。この言葉の根底にある経済的弱者に対する侮蔑感を感じるからです。 ​
 「身の丈に合わない」という言葉には、「能力や器が役割、立場に合っていない」という意味がありますね。この言葉は、自分が自身の状況を表現する時には謙譲あるいは卑下する場合などに使われる場合がありますが、今回は、権力者中の権力者である文部科学相が「親の経済能力に合わせろ」という意味で使われた言葉ですから経済的弱者を侮蔑する、あるいは排除する言葉であることは間違いありません。
 所得格差を無視した英語民間試験という差別制度をつくった文科省の官僚、加計学園疑惑の文科相が「身の丈」発言するという異常さは「劣化」という言葉以外に説明がつきません。
 ​この「劣化」は安倍首相主催の「桜を見る会」でも露骨にあらわれています。​

※あの言葉はもちろん、思わず口からこぼれたのだが、思わず言っただけによけい重大なのだ。​
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』講談社)


3、「劣化・3」-「忖度」は官僚主義の「負の産物」​
​​

 以上のように政府および官僚の「劣化」は著しいものがあります。そうした劣化はなぜ生まれてきたのか考えてみましょう。
 官僚組織についてはマックスウエーバー(M,weber)が明確にしています。ウエーバーは「近代化」を実現するためには、規則によって系統づけられた明確な権限をもつ組織が必要なことを主張していますが、一方で、官僚主義は「負の産物」を生むことをアメリカの社会学者・政治学者たちが詳細な研究によって明らかにしています。 
 特に、ロバート・キング・マートン(Robert King Merton)による「官僚制の逆機能」についての指摘は有名なので紹介いたします。 
 ①規則万能(規則に無いから出来ないという杓子定規の対応)
 ②責任回避・自己保身(事なかれ主義)
 ③秘密主義(組織を守るための虚偽、隠蔽体質)
 ④前例主義による保守的傾向(改革を望まない)
 ⑤画一的傾向(多様な価値観の否定)
 ⑥権威主義的傾向(権威への従属、国民、市民への冷淡で横柄な対応)
 (参考『社会心理学』中央生協出版)
 以上の指摘から、政府官僚や神戸市職員・教師の「劣化」の原因を解明することができますね。同じ政党・首相による政権、あるいは同じ市長・同系市長が長期にわたり権力を担当する場合、その権力の維持および執行を、容易にするという目的のために官僚は結束します。その結果、​「権威への従属」「忖度」「秘密主義」が生まれ、ひどい場合は「虚偽」「隠蔽」までもが行われることになるのです。​

※慢心は人間最大の敵だ。(シエイクスピア・『マクベス』新潮社)​







​4、「劣化・4」―官僚主義の「負の産物」を生んだ原因は​​

 戦後、日本は民主主義国家への舵を大きく切りました。日本国憲法のなかで、法の下の平等、両性の平等、男女普通平等選挙権の保障などが明文化されるとともに、憲法第25条においては社会権・生存権の保障が規定され、日本が福祉国家として社会保障・社会福祉の拡充・発展に努力することを国の使命として掲げました。
 そうした中、労働組合運動をはじめ市民・民主運動は国民の基本的人権を職場、地域、学園に定着させるために運動をしてきました。そうした中で、平等の認識は大きく広がり、労働条件をはじめ社会制度も大きく改善されてきました。 
 しかし、今日では労働組合運動が官民ともに労使協調路線に走り、働く者が団結できない、たたかえない組合に衰退したため、正規社員と非正規社員という差別雇用が一般化され、外国人労働者の雇用が促進される中、労働条件の悪化、低賃金が固定化されてしまい、仕事(所得)による異常な差別社会が完成しつつあります。
 この差別社会が「劣化」の大きな原因になっています。過度な競争、過度な管理、長時間労働はストレスを生み、ストレスは人間同士に対立と抗争を生み出します。「ネット差別」などはその排泄物のようなものです。そうした社会では人間は過度に自己保身に走り、官民問わず官僚主義の「負の産物」はウイルスのように蔓延することになります。 
 この差別社会に対する理念が「平等」であり、平等社会の実現により解決します。特に、階級的・民主的労働組合の役割は決定的です。​​職場に階級的・民主的労働組合が存在していれば、神戸市の「ヤミ専従」も「教員同僚いじめ問題」も生起することはなかったかもしれません。​​

​※「不正」はお互いの間に不和と憎しみを作り出し、「正義」は協調と友愛を作りだす。​
 (プラトン・『国家』岩波書店)  




5、「劣化・5」-官僚の「劣化」を生んだ主体性のない国民​​​

 問題となっている「花見の会」の写真を見ると、安倍首相を囲んで楽しそうにしているお笑い芸人の方々が多いのに気づきますね。「面白くない世の中を笑い飛ばす」。確かに社会的貢献度は高いようです。​
 アメリカのミシガン大学「世界価値観調査」(world value survey 2001)によれば、日本が先進諸国の中ではもっとも「社会的孤立度」が高い国になっている。原因は旧い共同体が崩れて、それに変わる新しいコミュニティができていないからです。
 世界幸福度報告( World Happiness Report)では、日本は2010年代前半は40位台をキープしていましたが、後半には50位台に転落しており、2019年には過去最低を記録しています。
  『全47都府県幸福度ランキング2018年版』(寺島実郎監修・日本総合研究所ほか)によれば、総合指標で表される幸福度は20ある政令指定都市では神戸市は15位となっています。
  世界的に見ても日本も神戸も最悪な状況にあるようです。なぜか日本人は深刻ではありません。まだまだ「なんとかなる」「国や神戸市がなんとかしてくれる」と、考えて「笑っている」ようです。 
 この背景には、長年にわたる「政治は政治家まかせ」からくる主体性の欠如があるようです。それが今日の政府や神戸市における官僚主義の「負の産物」を増幅してきた大きな原因のようです。
 
​※ 主体性の欠如とはなにか?​
①自ら理解しようとする姿勢がない。(学習しない)
②自ら考え行動しない。(指示がなければ行動しない)
③消極的である。(自分の考えに確信がない)
④自分の能力に自信がない。(自分の能力を客観的に評価できない)

 官僚主義を健全に機能させるためには、官僚自身が近代的な人権認識を身に着けることが大切ですが、それには国民の政治への主体的な参加が不可欠となります。官僚たちの「劣化」を嘆く前に、国民自身も国政や市政のことを真剣に学習し、自らの考えを確立し、自信をもって発言し、行動することが大切です。
 官僚の「劣化」を作りだした責任の大半は主体性のない国民にもあるように思います。(反省!)

​※他人を咎めんとする心を咎めよ。​(清沢満之『清沢文集』岩波書店)


私たちは人権社会を実現すると称して「憎悪の種」をまいてはいないか 京都アニメーションの事件現場を訪ねて

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​​​私たちは人権社会を実現すると称して
​「憎悪の種」をまいてはいないか​
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​​京都アニメーションの事件現場を訪ねて


 旧時代の部落問題は国民を「被差別者」と「差別者」とに単純に区分していました。その結果、「被差別者」は「踏まれたものの痛みはわからない」「部落民以外は差別者」であると、国民全体を憎悪し、攻撃的になることがありました。「差別者」も「被差別者」に否定的なレッテル(ステレオタイプ)を貼ることで差別を肯定し、忌避する行動をとることがありました。
 戦後、日本国憲法の基本的人権条項は憎悪を捨てて、対話、共感、共同する道こそが部落問題解決の大道であることを示し、国民全体の人権認識を高めることで、封建的な社会・人間関係、それに付着していた習俗・慣習を確実に解消に向わせてきました。
 しかし、今でも、「人権・同和教育」(「解放学級」も含む)においては、国民を「被差別者」と「差別者」に区分し、子どもたちの心に「憎悪の種」をまき続けています。
 もちろん、「憎悪の種」は「人権・同和教育」の分野だけでまかれているわけではありません。家族、地域社会、政治・経済・文化など、様々な分野でも怒りや苦しみや脅威は存在し、「憎悪の種」はまかれ続けています。にもかかわらず、私たちは「憎悪の種」の正体が何であるかを認識することはありません。「憎悪の種」がどのような状態で発芽し、成長し、社会的弊害を生むのかについてほとんど知らないのです。
 もし、人間の「憎悪の種」がどのように脳内で造られ、どのように発動するか知っていたとしたら、少しは理不尽な犯罪が防げるかもしれないし、穏やかないい人生が送れるかもしれません。
 そこで、今回は京都アニメーション事件の現場を訪問し、憎悪の炎にまかれた人々に哀悼の意を奉げつつ、人間の「憎悪の種」について考えてみました。
 


​ 憎悪が生み出す理不尽な犯罪​​

 美しい夢を紡ぐ人たちが理不尽な暴力によって命を失いました。
 2019年7月18日、京都アニメーション第1スタジオに男が侵入し、大量のガソリンを建物1階や従業員などにかけライターで着火した。爆発を伴う火災(爆燃現象)によって、死者は当初33名だったが、その後病院に搬送された負傷者が死亡し、その後、36名(10月4日時点)となってしまいました。 
 報道によれば京都アニメーションには数年前から作品への批判や社員への殺害予告が相次いでおり、その都度、警察や弁護士へ相談し、対処していたようですが、今回の事件との関係については分かっていないようです。
 放火殺人容疑者は警察官に取り押さえられる際、「パクリやがって」と声を荒らげたということですが、犯人が大やけどを負い、入院中なので詳しい動機は不明のようです。しかし、その言動から「見当違い」とはいえ強い憎悪感情(hate emotion)を京都アニメに抱いていた人物であったことは間違いないようです。

 
​​ 憎悪は脳の原始的領域から生まれる​​




 憎しみが生じるのは生物が古代からもっている生存の本能にあります。そのメカニズムは生物学、人類学、脳科学などの幅広い研究によって解明されてきました。
​​ 脳には原始的な領域(大脳辺縁系の偏桃体・図参照)があり、それは原始神経システムといわれ、自分を脅かすものに対する反応を司ります。その反応は瞬時に闘争か逃走に分けるはたらきをします。これに対して、知識と経験に基づく理性的な選択をする大脳新皮質こと、高等神経システムが存在します。​​
 闘争は外敵とたたかって生存を守ることであり、逃走は逃げることで生存を守ることです。闘争は憎悪を生み、敵を攻撃しますが、時にして自己に向くことがあります。生物のうち人間だけが自殺するのはそのせいだといわれています。
 この今回の犯人の憎悪行動には闘争するという側面と自殺するという側面が混在しているようです。


 憎悪の根源には敵意がある​





 私たちが恐怖でなく憎悪で反応する場合を考えてみましょう。例えば、毒蛇に遭遇した時には本能的に恐怖を感じますが、憎悪することはありません。しかし、それが鎌首を持ちあげて襲ってくる姿勢を見せた時、恐怖に襲われ、脳の​原始神経システム​が発動し、逃走もしくは闘争反応の引き金が引かれ、逃げるか、反撃するかを瞬時に選択します。
​​ 脳の原始神経システム「逃げ場のない状態に陥った時」に憎悪感情が理性的感情を抑え込み攻撃に打って出るのです。その瞬間、人間は憎悪の中に「しこり」があるのをはっきり確認できますね。それが敵意なのです。​​
 憎悪の中には敵意(憎悪の種というべきもの)が存在しているようです。この敵意は毒蛇に対するような個別的なものと歴史や社会体制のような抽象的なものに対しても発生します。今回の「京都アニメーション事件」は個人的憎悪のようですが、秋葉原無差別殺傷事件、大阪教育大附属池田小事件、相模原障害者施設襲撃事件などは、社会体制の歪が生み出した敵意により引き起こされた事件のようです。


​ 敵意が生み出す差別・偏見​​


2019_10月号ブログ絵解き4 


 人間はすぐに敵・味方を分けますね。この区分けは人間が生存するために必要な原始神経システムなのです。だから人間は家庭環境や社会的環境、教育によっては誰でも殺戮者になれる能力を持っているのです。だから戦争に行けば、どんなに優しい人でも一定の教育と訓練を受ければ人を殺すことが出来たのです。​
​ 部落問題でも「差別者」と「被差別者」に区分けを行います。この区分けも歴史的・社会的な知識と経験があれば高等神経システムにより、抑制力が働き「憎悪の種」にはなりませんが、子どもたちのように精神発達が未成熟な段階にあるうえに、知識や経験が乏しい場合、あるいは無知蒙昧な慣習や習俗の影響から抜けられない人たちは、この区分けを単純に「敵」と「味方」という図式に転化してしまい、「憎悪の種」を生みだす場合があります。​
 このことは麻生太郎さんが、野中広務元自民党幹事長に対して「野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」(2003年)と発言したことや、「ネット差別」といわれる書き込み(極めて少数だが)を読むとよくわかります。その内容には「憎悪の種」が増幅し、敵意が発動していることがよくわかります。
 当然ながら敵意は「差別者」だけがもつものではありません。「被差別者」の方も強く持ちます。それが前記の「踏まれたものの痛みはわからない」「部落民以外は『差別者』だ!」という「憎悪の種」中に敵意は存在しているからです。


 「敵意」は共感のスイッチを切り、
 差別・偏見を受け入れる​​

 共感とは他者の考え方や感じ方を理解しようとすることで、それが正しいと認められなくても、最悪の敵に対しても相手の身になって考えようとすることです。そうした立場でいる限り、理解や和解の機会は生まれますが、共感が切れれば、攻撃性が発動され、ナチスが「敵」とみなしてアウシュビッツでユダヤ人を大量に殺戮したような想像を絶する無差別殺人に突き進むことも起こるのです。
 この共感のスイッチが切れると、脳は​原始神経システム​を発動し、「憎悪の種」は敵意の形をとり、その敵意が、「さまざまな刺激」で増幅されることにより、​​高等神経システム​​は抑圧され、理性的な働きは弱められ、脳は感情的な状態に置かれます。 
 その結果、自分の生存を脅かしたり、不利益を与えると感じる他者に対する攻撃を正当化するために、「ユダヤ人は劣等である」「黒人は知能が低い」「部落民は穢れている」など、非科学的で根拠のない差別・偏見を容易に信じ込むようになるのです。
​​ 公的権力や社会的権力がこうした脳の働きを利用して政治的扇動を行えば、国民を誘導することは可能なのです。フジテレビは政治評論家の櫻井よしこ​さんを頻繁に登場させ、隣国・韓国に対する「敵意」をやさしい声と言葉に包んでふりまきます。韓国大統領の文 在寅(ムン・ジェイン)さんは支持を維持するために韓国人の皆さんの「反日感情」を激しい言葉で煽ります。​​
 20世紀最大の殺戮者ヒトラーも、演説で最初は静かに語りかけ、聴衆を引き込んだあと、激しい言葉で煽りました。お芝居が上手な人ほど扇動も上手なようです。
 今、大切なことは日韓双方の国民が自分の敵意・憎悪を疑うことです。


 「憎悪の種」をまく部落解放運動は
 必要がない
​​

 地域人権連を卒業してから、「解放同盟」「地域人権連」という区分けを離れ、俯瞰で部落解放運動の歴史をたどると、同和特別法が制定されて以後は、部落解放運動は本来なすべき運動がほとんどできてこなかったのでないか?という疑問が生まれてきました。
 本来の部落解放運動は科学的な調査と研究に基づく地域住民運動理論の創造、それを学び、対話と交流、共同をすすめるための運動であり、敵意と憎悪に満ちた運動ではなかったはずです。特に、共同をすすめることは社会心理学の研究により、共通の目的を達成するために他者と手を結ぶと、「敵」「味方」の分断が消えることがわかっています。それが充分できなかった。
 有体に言えば、敵意と憎悪の運動への引き金を引いたのは「解放同盟」です。全国各地で暴力利権あさりを拡大するために、暴力的な「確認・糾弾」を濫用しました。その結果、国民の部落解放運動への共感スイッチは切れる寸前にありました。そうした危機を食い止めるために地域人権連は組織の全精力を注ぎこんで来たのです。
 こうした状況を国民はどう見ていたのでしょうか?「部落民同士の内輪もめ?」。
 しかし、これほど「解放同盟」の蛮行、違法行為が横行したとしても、驚いたことに、部落差別は着実に解消してきているのです。詳細な分析は別の機会に行いますが、この現象の背景には、社会構造として部落差別を残し支える必要がなくなったこと、様々な階層・分野において人権獲得運動が前進し、日本社会の基盤として人権意識が定着してきたことにあるようです。


「憎悪の種」をまく「人権・同和教育」をやめ、
「共同の教育」を​​進めよう

 「差別者」「被差別者」という区分けには「憎悪の種」が内包されています。その種の中には敵意が眠っています。当然ながら、それがすべて反社会的行動になるわけではありませんが、人間は「逃げ場のない状態に陥った時」に憎悪感情が増幅され、強い敵意となり、理性的感情を抑え込み他者への攻撃に打って出るのです。​
 子どもたちのように精神発達が未成熟な段階にあるうえに、知識や経験が乏しい場合、「人権・同和教育」(「解放学級」)は脳の​​​原始神経システム​を強化し、高等神経システムを弱め、科学的で知性的、文化的な生活意欲を弱めることになり、「極めて危険な教育」といえます。​
 心理学史の巨人といわれているスイスのピアジ(J.Piaget)は​生まれてから12歳までに恐怖、嫌悪・憎悪の対象を家族・親族、共同社会において教え込めば、立派な「差別主義者」の心理的基礎がつくられ、反対に愛情を注ぎ、家族・親族、共同社会を愛することを教えれば立派な「反差別主義者」の心理的基礎ができると指摘しています。
 今、子どもたちの教育で必要なのは、人間の理性を開花させるために「共同の種」をまく教育を創造していくことです。​共同の教育は複数の子どもたちが、対等・平等に同じ目的のために一緒に考え、行動し、責任を分担します。
 この思想は協同、協力、提携、連携、協賛、チームワーク、共催、共生に派生し、やがて平和へとつながるはずです。
  理不尽な殺人に心を痛めている皆さん。「部落差別」を解決したいと心から願う皆さん。一度、自分の心の中にある「憎悪の種」を見つめ、それを「共同の種」に変える努力をしてみませんか。


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参考文献
『ひとはなぜ戦争をするのか』A・アインシュタイン、S・フロイト・講談社
『感情はコントロールできる』G・D・マッケイ・創元社
『人はなぜ憎むのか』ラッシュ・W・ドージアJr・河出書房新社
『意識とは何か』苧阪 直行・岩波書店
『心理学のすべて』深堀 元文編著・日本実業出版社  

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