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国立施設「ウポポイ(民族共生象徴空間)」開設 松浦武四郎から考えるアイヌ民族

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​​国立施設「ウポポイ(民族共生象徴空間)」開設
松浦武四郎から考えるアイヌ民族






 はじめに
 私たちはアイヌ(人間)が好きです。
 アイヌの信仰ではこの世の生きとし生けるものは神と考える。神たちはそれぞれ本国があり、本国では人間と同じように家を建てて村を造り、生活しているというのである。その神たちが人間界に遊びに来るときに、仮装してクマとなり、鳥となり、鮭となるというのである。だからよいアイヌを選んで身を捧げ、再び神の世界に帰るというのです。
 西洋の宗教のように動植物を人間の従属物とは考えず、人間と対等と考え敬うゆえ、乱獲や破壊は生まれない。これは仏教における「足るを知る」にも共通します。さらに、国連のすすめるMDGs(Millennium Development Goals 「ミレニアム開発目標」)を実現するための理念にも通じているのです。こんな深い温かい信仰をもち、それとともに生きてきた民族が日本に存在することが誠に素直に嬉しいのです。
 だから好きなのです。
 「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」(2019年・「アイヌ施策推進法」)が制定され、本年7月に国立施設「ウポポイ(民族共生象徴空間)」が開設されました。
 1899(明治32)年に『北海道旧土人保護法』が制定されてからほぼ100年を経て、日本の先住民族で日本国民であるアイヌの「誇り」が尊重される社会を実現するために、「ウポポイ」が設置された意味を深く考えなくてはなりません。
 それは日本国民が少数民族に対する理解を深め、共生社会を実現していくという法律的な建前ではなく、日本にはアイヌという素晴らしい歴史と文化を持った同胞の存在していることを認識し、そこから世界と日本を持続的発展の基礎となる思想と文化的恩恵を得られると考えられるからです。
 そこで今回は部落問題しかわからないのに人権の専門家面してしまう軽薄な自分たちへの戒めとして、日本の少数民族アイヌについて学習するはじめとして松浦武四郎記念館を訪ねました。







​​​​​​​​​​​​国立施設「ウポポイ(民族共生象徴空間)」の意味を考えよう​​​​​​​​​​

1899年に制定された「北海道旧土人保護法」は、1997年に「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及および啓発に関する法律」が制定され、アイヌを日本の法律の上で初めて民族として認め、アイヌの伝統的な文化を国と地方公共団体が保証し,振興していくものであると明記した。それとともに、アイヌを「土人」という侮蔑語で総称した「北海道旧土人保護法」は廃止された。​​その間ほぼ100年、アイヌは強制的に日本国民にされながら不当で屈辱的な扱いを受けてきたのである。​​

政府は法律を補充するために、2019年に「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」を制定し、「アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ、及びその誇りが尊重される社会の実現を図り、もって全ての国民が相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資することを目的とする。」アイヌ施策の推進を決定した。​​






​​​菅義偉官房長官(当時)も参加して開業された国立施設「ウポポイ」​

アイヌの文化復興を担う白老町の国立施設「ウポポイ」が7月12日に開業された。前日に開催された開業記念式典には、菅義偉官房長官(当時)、鈴木知事ら政府や道内自治体、北海道アイヌ協会の関係者ら約160人が参加して盛大に行われました。

主催者あいさつで、菅氏は「ウポポイは貴重なアイヌ文化を復興、発展させるとともに、我が国が多様で豊かな文化の社会をつくるための拠点。政府としてもPR、魅力向上に努めたい」などと述べた。(読売新聞より)
「アイヌ文化」の本質もわからずに官僚の用意した文章を読んだのでは?という疑いも残りますが、今は菅さんを信じるべきだと思います。
「ウホポイ」に対しては批判意見もあるようですが、「万世一系の天皇に統率される単一民族」という非科学的な民族信仰を持つ国会議員の多い日本で、少数民族の存在を認め、「アイヌ文化を復興、発展させる」という政府代表の言葉は重く、歴史的です。
​​今回はこの重さの意味を考えてみたい。​


※アイヌは固有に日本列島にいた民族である。
かれらは縄文的な採集のくらしを、弥生時代になってからも、頑固に守りつづけたひとびとの後裔であることは、まぎれない。もっとも、太古以来、アイヌがいまのアイヌ文化(文様も含めて)を持ち続けてきたわけではなかった。いまのアイヌ文化がはじまるのは考古学的には意外なほどあたらしく、せいぜい13世紀かららしい。
(司馬遼太郎・『オホーツク街道・街道をゆく』)




​​​​​アイヌを愛した―松浦武四郎​

アイヌの歴史を知るうえで必ず知っておかねばならない人物がいます。その人はアイヌ民族と日本民族の最初の架け橋となった松浦武四郎です。
武四郎は文化15(1818)年、三重県松阪市小野江町にて生まれました。17歳で家を飛び出し26歳までは日本全国をめぐる旅をしました。28歳から41歳までの間に合計6回(内3回は私費)に及ぶ蝦夷地(北海道)の探査を行ったのです。
51歳の時明治維新においては政府開拓使で蝦夷地にかわる道名、北加伊道(のちの北海道)という名前を考案しました。また、国名、郡名とその境界の撰定にも関わり、北海道発展の出発点を築くとともに、​国際的に権利概念が確立していない当時にアイヌを先住民として尊敬していたのです。
晩年68歳からは大台ケ原の探査を70歳までに3回、また70歳には富士山へも登っています。
その生涯は冒険家であり、旅の中で生き抜いた人生でした。作家の司馬遼太郎は次のように武四郎を評価している。
「江戸末期の松浦武四郎は、江戸文化が蒸留された一滴といえる。みずからの意志による北方探検の人であった。儒教夷狄観から脱した人文科学的思考者であり、薄明の天地人を知りたいという好奇心と不抜の意志の人であった。アイヌへの愛も深かった」。
(司馬遼太郎・『オホーツク街道・街道をゆく』)


●写真は武四郎肖像65歳の時の写真と伝えられるが、首からは勾玉など玉製品が数多く通された首飾りを下げるなど、古物の収集にも熱心であった。​​​​




​​「松浦武四郎記念館」を訪ねる​
  吉田松陰にも大きな影響を与えた

私たちは武四郎をさらに知るために三重県松阪市にある記念館を訪ねました。
そうなんです。武四郎さんはアイヌの住む蝦夷地とは程遠い三重県の出身なのです。なのになぜアイヌに関心を抱き、私費で何度も探検したのか?それを深く知ることが自分たちがアイヌを正しく理解するための導きの糸のように思われます。
記念館には松浦家から松阪市に寄贈された武四郎に関する貴重な資料が数多く収蔵されています。
平成20年(2008年)には、寄贈された資料のうち1503点が、国の重要文化財に指定され、展示室は、約2ヶ月ごとに資料を入れ替えながら、多彩な分野で活躍した武四郎の様々な姿を紹介しています。
資料館には武四郎28歳から41歳までの間に合計6度に及ぶ蝦夷地(北海道)の探査を記録した手書きの日記・絵日記や絵図が展示されています。
日記や絵図に書かれているアイヌたちの生活する姿はリアルであり、例外なく温かい。武四郎がアイヌの人々と心を通わせていたのが伝わってきます。
一方では蝦夷探検を通じて、日本の国防と明治維新に大きな影響を与えたことも資料で説明しています。
吉田松陰、頼三樹三郎など、維新を推進した指導者は武四郎の考えに大きな影響を受けたのです。​​





​​​​​自費出版で―アイヌ民族を紹介

蝦夷地は広大な島である。まだ内陸部の詳細な地図もない中で、原生林の広がる大地を目の前にして、武四郎は道内各地で暮らしているアイヌの人びとの協力を得て、調査を進めていきました。
武四郎の偏見のない人間共感力は寝食をともにする調査の中で、アイヌ文化は我々とは異なる文化であるが、自分たちにはない素晴らしい部分を持っていることを強く感じました。
調査の後、蝦夷地の様子を多くの人びとに伝えるためにたくさんの紀行本を執筆し、内陸部を詳細に示した蝦夷地地図を制作するとともに、アイヌ文化の紹介にも力を注ぎました。武四郎は成果である151冊にものぼる調査記録をもとに、紀行本や地図を出版しています。
『壺の石』『於幾能以志』など、当時有名な本屋であった播磨屋から出しているものもありますが、多くは「多気志樓蔵板(版)」と自費出版を行っているのです。​​

※(知床半島の雑木林を観て)
雑木林を見ながら、松浦武四郎のことを思った。その日記や紀行文のたぐいも持ってきた。武四郎が愛した山川草木の中でその文章をよむと、自分がアイヌになって武四郎と話しているような気になる。
(司馬遼太郎・『オホーツク街道・街道をゆく』)




​​​松前藩を命をかけて批判―アイヌの生活と文化を発信​

武四郎の人間共感力はアイヌ語をはじめ、独特の文様を多用する文化、織物や服装の独特の文様などに感銘し、日本人にアイヌの生活を詳細に紹介しました。さらに、アイヌの自然と調和した狩猟、漁猟、採取(山林・海洋)、農耕、及び交易を組み合わせて生活に必要な物資を確保する生活に感動しています。
しかも、単なる旅行記ではないのは武四郎の視点が、家族愛や狩猟採取での知恵や勇気、アイヌの長老の語る意味深い伝説や逸話とともに、17世紀以来アイヌを収奪してきた松前藩の役人や商人たちのむごい交易や支配の記録も含まれており、自らも和人(日本人)ながら同胞の非道な行いを厳しく告発していることなのです。
次々と蝦夷地の実情を公表していった武四郎は、松前藩への批判を容赦なくおこなった。その結果、当然命を狙われ、調査の妨害を受けることや、暗殺されそうになったこともあったといいます。
アイヌの文化や生活を守るために命をかけていたのです。​​





​日本人を告発した日本人―武四郎​​

幕末には、大久保利通(写真左)、西郷隆盛(写真右)、桂小五郎こと木戸孝允らは蝦夷地情報を知るために、松浦の家を訪れていました。
明治新政府が成立すると、武四郎を高く評価していた大久保は政府に彼を登用させ、「蝦夷地開拓御用掛(ごようがかり)」に任じました。
明治2(1869)年に戊辰戦争が終結し開拓使が設置されると、これまでの調査実績を認められ蝦夷地通として、開拓判官の職に任命されました。 
武四郎は、アイヌ民族の生活と伝統的な生態系を守ろうとして、松前藩の政策を批判し、アイヌの権利を保護するための政策を公に採用しようとしました。和人とアイヌが共存しながら、アイヌが安心して暮らせる蝦夷地を創ろうとしたのです。当然ながら蝦夷地の資源を独占化しようとする抵抗勢力とぶつかることになりました。
それは、松前藩以来続く商場知行制(あきないばちぎょうせい)のようにアイヌを排除し、商人たちに海産物の交易権を独占させ、アイヌの男女を酷使する悪制を守るか、廃止するかという争いでもあったのです。
開拓長官となった公家の東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)は、商人たちの賄賂攻勢により、商人たちのいいなりとなったため、武四郎の提言は骨抜きにされ、武四郎は挫折します。
​​​その挫折は日本における長いアイヌ差別のはじまりとなりました。​​​​





​​コタンの口笛―アイヌ差別

明治時代に入り、「北海道旧土人保護法」が制定され、表向きではアイヌ民族を受け入れているようにも見えますが、学校では、アイヌ語をはじめ独自の文化や習慣は否定され、日本語や和人風の生活の仕方を覚えなければなりませんでした。民族差別は続いていき、アイヌの人たちの自由はますます奪われていってしまいました。
戦後に発刊された石森延男の小説『コタンの口笛』(コタンのくちぶえ)、それを原作とする成瀬巳喜男監督の映画(1957年)は和人によるアイヌに対する差別・偏見の厳しさをよく著している。

小説『コタンの口笛』に出てくる差別

◯先生に手をつなぎ丸い輪になれといわれたのに、ユタカ(アイヌの子ども)と手をつながない佐吉(シャモの子ども)。「おい手を出せよ」というと人差し指をかぎなりにまげて、「ここへつかまれ。」というしぐさ。

◯クラスの和人の財布がなくなった嫌疑をアイヌという理由でかけられたマサ。

◯英語でいい成績をとったユタカは「劣等なアイヌがいい成績がとれるはずがない。和人とアイヌは「血が違う」と非難される。

かつての部落差別に似ていますね。子どもたちの差別は親や社会の影響を受けたものですからパターンは同じになるのは仕方がないようですね。​


​※私たちの「国土」に和人は何百年も前から渡ってきていました。本格的に全面的に「侵略」したのは今から百十年ほど前の明治になってからです。(萱野茂『アイヌの碑』朝日新聞社)​​




​​​松浦武四郎生家とお蔭参り​

松浦武四郎生家は記念館から歩いて10分もかからない場所にあります。約200年という生家の前の道は伊勢参宮街道であったことから、多くの旅人が行き交ったといわれています。
生家におられるガイドボランティアによれば、「武四郎の冒険好きは子どものころから伊勢参りの人々を見聞したことからはじまったのではないか」ということでした。
お蔭参り(おかげまいり)は、江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣のことです。お蔭参りの最大の特徴は奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣できたことにあります。それが、お蔭参りが「抜け参り」とも呼ばれたゆえんなのです。
大金を持たなくても信心の旅ということであれば沿道の施しを受けることができ、身分制のくびきから解放されてつかの間の「自由な旅」を体験できたのです。




​国防意識から蝦夷地探検へ

武四郎の生家の前は伊勢街道が通っていたため、その影響を大きく受けたといわれています。

文政13(1830)年、武四郎が13歳の時に起こった「文政のおかげ参り」は、日本の人口が約3000万人と推定されている時代に、一年間に約500万人もの人びとが、全国からお伊勢参りにやって来たとも言われ、今では想像を絶するほどの賑わいであったようです。
かつて武四郎の家の前の街道の両脇には宿場もあり、旅人で混雑していたようです。その旅人たちのお国自慢や歌や踊りに影響を受け、未知の世界に憧れて武四郎は冒険に出たというのです。
武四郎が蝦夷地を目指した動機についても、同ガイドから教えていただきました。
武四郎の冒険の最終的目的地は中国、インドであったという。全国各地を旅し、中国、インドに行くために朝鮮半島に渡ろうと意図し、長崎に滞在していた時、武四郎の耳に海外の情勢がはいってきたそうです。東南アジアの国々がヨーロッパ諸国の植民地となり、日本へも外国船がやってきていることを知ったのでした。
日本の将来を心配する人びととの話の中で、北の大国ロシアが南に勢力を拡大しようとして、蝦夷地(北海道)を狙っていることを聞き、このままでは日本もロシアから植民地の支配を受けるかもしれない、自分に何かできることはないだろうかと考えた武四郎は、蝦夷地を調査し、その様子を明らかにすることで、多くの人びとへ伝えようと決意したというのです。この時、武四郎は26歳でした。​​






​​​武四郎から学ぶべきは人権の基礎​

この看板は記念館の隣にある松阪市小野江小学校の卒業生が製作したものです。松阪市の教育委員会では人権教育の一環としてアイヌの歴史や文化について教えているそうです。
武四郎の生まれた時代は今から150年ほどまえ、江戸末期、その頃はすべての人びとは身分制に縛られ平等ではありませんでした。
支配者に対する政治的・経済的な不平不満は存在していても、「人権」という高尚な概念は存在していませんでした。
そうした社会構造の中で、現代的な視点でいえば、アイヌ民族の「人権」を守るために力を尽くした武四郎には驚かされます。 
彼はなぜアイヌ民族の「人権」を認識し、その文化を受け入れることができたのでしょうか。その答えは、幼い頃から他郷から流れてくるお蔭参りの人々との身分にとらわれない交流、自ら旅の体験を通じて培われた人間に対する共感ではないかと思われます。
そうなんです。彼の「人権」とは「人間的共感力」ではないかと考えられます。それが基礎となって、アイヌとの出会いによる異文化体験を素直に受け入れることでアイヌ文化の本質を認識し、その価値を認めることが出来たのです。
一応人権概念を理解しているはずの私たちであっても、異なる文化、価値観に出会ったとき、対象に対する無知と誤った情報から自分たちの文化や考え方と比較して優劣をつけてしまうことや、表面だけで判断し、他を否定し、排除することがないとは言い切れませんね。それは人間的共感力が未熟だからです。先入観や偏見を排し、自由で対等な人間として交流し、理解を深め合うことが人権教育の基礎であることを武四郎の人生が教えているような気がするのです。


●参考文献
司馬遼太郎『街道をゆく―街道をゆく15』(朝日文芸文庫)
司馬遼太郎『街道をゆく―街道をゆく38』(朝日文芸文庫)
金田一京助・荒木田家寿『アイヌ童話集』(角川ソフィア文庫)
萱野茂『アイヌの碑』(朝日新聞社)
石森延男『コタンの口笛』(偕成社)
知里幸惠『アイヌ神謡集』(岩波文庫)他。
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